2008年10月30日

「信じてたのに」の欺瞞―慶大生大麻事件

■慶大生大麻事件の大学側の反応

★「学生信じてきたのに残念」慶応大が謝罪 大麻事件

「慶応義塾大学の学生2人が大麻取締法違反の疑いで神奈川県警に逮捕された事件で、同大の森征一常任理事(法学部教授)らが30日午後、東京都港区の三田キャンパスで会見を開き、「学生の自主性を尊重するのが建学の精神だった。学生を信じてきたので本当に残念」などと述べ、謝罪した。同大は今後、『危機管理委員会』を立ち上げて再発防止に努めるとしている。」(2008年10月30日asahi.com)

慶應義塾大学の学生が大麻事件を起こした。この事実に関しては別段特に言うこともない。同じように人体に害のあるタバコや酒は(20歳以上であれば)法律で許可されている。しかし日本では大麻は法律違反。だから吸っちゃだめよ。以上である。

むしろ私が気になったのは、大学関係者の反応で「学生を信じてきたので本当に残念」という発言だ。

■「信じてたのに」の欺瞞

私は一般的に、他人に対して「信じてたのに」というのは良くないと思っている。そもそも「信じてたのに」という言葉は、無責任で都合のいい楽観を意味するからだ。

よく女性が、浮気しそうな男性に向かって「信じてるから!」と言う。(これは結構重いプレッシャーだ。)しかし、これは女性が、「あなたは浮気をする人じゃない。そう信じてるから」と勝手に決めつけていることを表している。つまり、その男性は浮気をしそうな男なのだという現実から目を背けて、「きっと浮気はしない」という無根拠な楽観を押しつけているだけなのだ。

今回の事件もそうだ。「学生を信じてたのに」という気持も分からなくはない。しかし、大学生が大麻売買する可能性は十分ある。そういう現実から目を背け、特に対策も行わず(少なくとも記事には対策の存在については触れられていない。04年以降5人も逮捕されてるのに!)、「学生を信じてきたのに」とは無責任にもほどがある。

大麻は自生が簡単な麻薬だ。だからスペイン語で"安い煙草"という意味の「マリファナ」という異称を持つ。(参考→Wikipedia)社会からの逸脱行為に興味を抱きがちな大学生が手を染めても何ら不思議ではないのだ。大学側はそのくらい予め予測して、学生への注意を促す活動をしておくべきだったのではないか――。

それにしても、この大麻問題。大相撲の次は慶大生と来た。こういう事件はずるずると類似事件が続発していくものだから、他の大学が心配。慶大より遥かに人数が多い早稲田大学は大丈夫だろうか…


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2008年10月29日

この東京には、まだ無数のストーリーが転がっているはずなのに

■退屈な日々

いつもの様に、高架になっている中央線の駅のホームから、見慣れた街並みを見下ろすと、何だかつまらないなあと思った。退屈な風景。退屈な生活。退屈な毎日。

なんでこんなに退屈なんだろう?それは「物語」がないからだとふと思った。物語というのは、小説とか映画とか単に娯楽の一形態ではなくて、もっと生活に根ざした、欠くべからざるものなのだと思う。

物語の定義は様々だろうが、私が考えたのが、「時間的に連続していて、相互に意味のつながりがある、イベントの集まり」というものだ。まわりくどい言い方だが、要は「筋があるイベントの集まり」ということだ。

例えば、よくある学園モノ。主人公の男が授業に遅刻しそうで慌てて廊下を走っているところ、転校生の女の子と鉢合わせになるという馴染みのシーン。このような現実にはあまりお目にかかりそうもないイベントも、その後何も発展性がなかったら物語は成立しない。

その後、ぶつかって険悪ムードになった二人が実は同じクラスだったことが発覚して、その後何となく放課後一緒に帰るようになって、いつしかひかれ合うようになって、と連続したイベントが続かないと物語は成立しない。

筋のあるイベントには「意味」がある。われわれ人間は、芸術家とか特殊な人種を除いて、「無意味」なものをつまらないと感じる。一方「意味」があるものに関しては面白みを感じる。ではなぜ「意味」があるものは面白いのか?

■物語が面白い理由

「意味」があるということは「何かと関係している」ということだ。「この仕事には意味がある」というとき、その仕事は成果と関係しているということを表わす。逆に無意味な仕事とは成果に結びついていない仕事を表わす。

ここからが安っぽいポピュラーサイエンスっぽくなってくるのだが、要は人間は頭の中で何かと何かがつながると快感を感じるようにできている。いわば物語というのは、脳神経細胞に次から次へと様々な発火を起こさせる連続打ち上げ花火みたいなものなのだ。

このような連続打ち上げ花火が、今の私の生活にはない。だから退屈なのだ。そんなことを思いながらいつものように中央線に乗る。窓の外には午前の日を浴びた東京の街並みが広がる。そこにはまだ出会えるはずのストーリーがごろごろ転がっているはずなのに…



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2008年10月27日

人文社会科学を侮辱するのはもうやめよう

■またしても敬意ない発言

はてなブックマークでとんでもないエントリを見つけた。

■作家は人生経験ないバカなの。死ぬなの?

この記事を書いた人は、フィクションというものに何の価値も置いていないようだ。こういう人と、私(というか大半の人)のようにフィクションに価値を置いている人は、そもそも議論ができない。

トラックバックにも書かれていたが、この文章にはある種の「悪意」のようなものを感じた。以前記事にも書いた『お前が若者を語るな!』を読んだ時に感じたような、「人文社会科学への敬意のなさ」のようなものを。

私は根っから文系の人間だが、自然科学に対してこういう発言をしようとは全く思わない。なぜなら、自然科学の歴史と今受けている恩恵に敬意を払っているからだ。

■はてな匿名ダイアリーの恐ろしい可能性

それにしても、この「はてな匿名ダイアリー」というのは、何というか、凄まじいサービスだなと思う。匿名なだけに何を言おうとほぼ自由だし、2ちゃんねるよりもまとまった内容を、特定のスレに限定されることなく発信できる。

今回の記事には幻滅だったが、このサービスには何か得体の知れない可能性を感じた。

このサービスは、はてなブックマークと直結しているだけに、ある記事がホットエントリになれば、瞬時に大量のユーザーの目に触れることになる。

そのエントリは、読む人の感動を誘うものもあれば、人々を底の見えない闇の中に引きずり込むものもあるかもしれない。匿名であるがゆえに、いかなる配慮も欠いた、剥き出しの恐ろしい言葉が書かれるかもしれないのだ。そういう言葉の破壊力は計りしれない。

しかし、だからこそトラックバックとか、ブックマークのコメント機能があるのだと思う。これらの機能があるからこそ、読者は、他の読者の反論などにも触れ、エントリに書かれた言葉を相対化して距離を取ることができるのだ。

これがもし、トラックバックもコメント機能もなかったら…?

そのような状態で、例えば「人間は自殺すべきだという理由を誰が読んでも納得するくらい論理的に証明したような記事」がホットエントリになんてなっていたりしたら…?

そんな状況を想像すると、やはり怖くなってしまう。




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posted by Tommy at 22:48| Comment(0) | ウェブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月26日

想像通りの家事ロボ

以前、ブロガーロボをの記事を書いたが、今度は家事をするロボットが開発された。それも結構本格的。

★掃除や洗濯これ1台で 東大やトヨタなど家事ロボ開発

「掃除や洗濯、食器の片づけなど、家庭内でのいろいろな仕事を1台でこなしてくれる「家事支援ロボット」を、東京大やトヨタ自動車などの研究グループが開発した。東京大で24日、その仕事ぶりが公開された。

 このロボットは車輪で移動し、身長は155センチ。単身世帯や高齢世帯の家事負担を減らすことを目標に開発した。事前に命令しておけば、留守中に家事をこなしてくれる。」(2008年10月25日asahi.com)


よくSFとかに出てくる家事ロボットのイメージそのまま。

どうやら家事労働の担い手は女性から男性と来て、次はロボットになりそうである。というか男で家事労働やっている人はまだ多数派じゃないだろうから、このまま家事ロボが普及すれば、歴史的に男の大多数が家事労働をやる時代はもうやってこないのかもしれない…

よかったね、男性諸氏!
タグ:ロボット
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2008年10月25日

社会学者は株をやっていいのか

■資本主義に参加する罪悪感

先日、大学時代の友人と新宿でランチを食べた。

その友人は最近デイトレにハマっているらしく、始めて半年くらいで2〜30万円くらいの利益を上げているという。この金融危機の時期によく株なんかで儲けられるなあと目を丸くして聞いていた。

いかに安全に株で利益を上げるか、経済学者の意見は正しいか、などの話でひとしきり盛り上がった後、話題は一転、途中から「社会学者は株をやっていいのか」という議論になった。

私は大学時代、社会学とメディア論を専攻したので、にわか社会学者のつもりでいる。だからこそ、株というものには、なんだか身構えてしまうのだ。

社会学とは社会を批判する学問だ。だから、今の社会全体を支配しているシステムである資本主義は当然批判対象となる。たとえマルクス主義に直接影響を受けていない分野の学者でも、手放しで資本主義を肯定したりはしないはずだ。

社会学者が株を買ったりするのは、自分自身が資本家になることを意味する。それはつまり、批判対象である資本主義に自らどっぷり参加してしまうことになるのではないか。

だから、自分としては、株に手を出すことには、やっぱり抵抗を感じてしまうのだ。というか倫理的に問題があるような気がしてしまう。社会学者が株をやるというのは、何だか道理に反しているような気がしてしまうのだ。

(といいつつ、ちゃっかりブログにアフィリエイトは設置している。実はこれも最初は資本主義的だから、結構罪悪感を感じた。しかし、広告モデルがあるからこそ、われわれはGoogleやブログなど先端のメディアを無償で利用できるのだし、それにまあ、ささやなかモチベーションも必要ということで…)

■株をやるメリット

友達の意見は「大学の先生なんだったらちょっとやめた方がいいかもね」というものだった。やっぱりそうなのか…。

しかし、ここであえて反論を考えてみたい。社会学者だって株をやっていいのだと。

私が以前勤めていた会社で、株でそこそこ儲けて、得た利益でPSPとか娯楽品をちょくちょく買っている人がいた。その人は株を始めてから世界経済の動向を必死で勉強するようになったという。やはり自分の金がかかっていると思うと、勉強も真剣になるのだ。

それに、株をやると資本主義経済を内部から知ることができる。社会学の研究方法で言う、「参与観察」というやつだ。実際に外から観察するだけでなく、内部に入って観察した方がより多くのことが分かるというものだ。

加えて、何か社会的に有益な活動を行うベンチャー企業などに投資して、間接的に社会貢献をするということもできる。社会学の究極的な目的は言うまでもなくよりよい社会を構築することなのだから、社会貢献している企業をバックアップすることは何ら道理に違反するものではないはずだ。

以上のような理由から、社会学者も株はやってよい。たぶん。まあ、私はまだやるつもりはないのだけど。

実際のところ、世の社会学者は株をやっているのか、やっていないのか?誰か知ってる人いないものだろうか…



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タグ:社会学
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久々にテレビドラマというものを見た―TBS「流星の絆」

■テレビも結構おもしろいじゃん

外で夕飯を食べてから家に帰り、新聞を広げると、テレビ欄の「流星の絆」というドラマのタイトルが目に入った。

★流星の絆

私は毎日のように本屋へ行く活字中毒(というか本屋中毒)の人間なので、当然、東野圭吾原作の『流星の絆』の存在は知っていた。

ひさかたテレビドラマなんて見ていなかったので(というかテレビ自体まったく見ていない)、ちょっと見てみることにした。

今日は2話目だったようだが、もともと犯罪小説なのだから、話の筋はすぐに分かった。二宮和也、錦戸亮、戸田恵梨香の3人が兄妹で、幼い時に両親を何者かに殺害され、その犯人を追うというものだ。

よくもまあこんなに視覚的に綺麗な人間がぐりぐり動くなあと、それだけで結構面白かった。昔は1クールのドラマの3分の2くらいは見ていた人間なのに。いったい私にとってテレビはいつから「非日常」になったのだろう。

見始めて10分くらいでいきなり画面が切り替わりCMが映った。CMが入ることなんて当たり前のことなのに、何だか暴力的な感じがした。この時間が無駄なんだよなと思った。

本や雑誌でも持ってきて読もうかと思ったがやめた。最近の市場動向を調査する。そんな目的を持てばCM視聴も面白いと思いなおした。

1話見終えて、ああ、やっぱりドラマも面白いものだなと思った。

中盤の要潤が代官山のハヤシライスを拳でつぶすシーンとか、「コミカルさを出してますよ」系の演出が中途半端な感じがして鼻についたが、それ以外はとても面白く観れた。(こういう演出も視聴者を1時間飽きさせないため必要なんですよね)

最近ビジネス書や教養書しか読んでいなかったので、こういうドラマなんかを見ると、改めて人間には「物語」が必要なんだなあと思う。

物語で他人の人生を疑似体験することで、人は、停滞した日常生活にいくらか新鮮な空気を吹き込ませることができるのだ。

物語の恩恵を受けるのであれば、無論ドラマでなくても小説や映画でもいい。私もそれらの方が好きだ。しかし、これはよく言われていることだが、ドラマには、まるで視聴者がドラマの登場人物の中に入って一緒に会話しているような錯覚を抱かせる。

つまり、孤独を癒す装置としても機能するメディアなのだ。

そんなこんなで、先週から連れが海外に行っていて、ほとんど誰とも会わず過ごしていた私にとっては、今回のドラマはちょうどいい慰めにもなったのだった。

また来週も見ようっと。



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タグ:ドラマ
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2008年10月24日

制度改正までに流れるたくさんの血

■労働問題関連の新施策発表

★年長フリーターの正規雇用、企業に助成金 厚労省方針

「厚生労働省は21日、雇用対策として年長フリーターらを新たに正社員として雇う企業に対し、1人あたり50万〜100万円程度の助成金を出す制度を作る方針を固めた。3年程度の時限措置とする。与党も同様の方針を固めており、政府が今月中にまとめる追加経済対策に、若者の雇用対策の目玉として盛り込む考えだ。」(2008年10月21日asahi.com)

これまで見過ごされがちであった、年長フリーターを対象とした施策がやっと出てきた。しかし、対象は25〜39歳で、それ以上の年代は対象になっていない。再就職は年齢が上がるにつれて難しくなるはずなので、40歳以上のフリーターを支援する仕組みも早急に構築する必要がある。

★ニート・引きこもりの自立支援へ「若者新法」 政府方針

「政府は23日、ニートや引きこもりの若者の自立を支援するための「若者支援新法(仮称)」を制定する方針を決めた。新法の柱は、地域ごとに官民で協議会を作り、困難を抱える若者を多面的・長期的に支援する仕組みを作ることを想定している。来年の通常国会への法案提出を目指す。」(2008年10月24日asahi.com)

何だか安倍首相の時の施策に似ているが、今度は「多面的・長期的に支援」とあるように、再就職後のアフターフォローなども視野に入れているようだ。安倍政権時の労働施策は大量のコストを費やした割には問題の根本的な解決には至らなかったと批判されている。今度こそ問題の根治に結びつくよう期待したい。

それにしても、フリーターや引きこもりなどは何年も前から議論されていることなのに、政府というのは何でこうも対策を立てるのに時間がかかるのだろう。毎回何かしらの問題が噴出して収拾がつかなくなってきてから初めて、ぼちぼち対策が施され始める。

■制度改正までに流されるたくさんの血

最近、経済評論家の勝間和代が日本の労働問題について論じた『日本を変えよう』という本を出版した。

勝間和代の日本を変えよう Lifehacking Japan
勝間和代の日本を変えよう Lifehacking Japan

この本は正直、玄田有史や本田由紀など教育・労働関連の専門書と比べると、分析も浅いし内容的に新しいことは言っていない。

働く過剰 大人のための若者読本 日本の〈現代〉12
働く過剰  大人のための若者読本  日本の〈現代〉12

軋む社会 教育・仕事・若者の現在
軋む社会 教育・仕事・若者の現在

しかし、この本の価値は専門書として云々という所には全くない。経済評論家として今を時めく勝間和代が日本の問題について語るということ自体に意味がある。勝間氏が語ることによって、普段労働問題なんて気にもとめていないようなビジネスマンにまで、広く問題を知らしめることができる。そのこと自体に価値があるのだ。

しかも勝間氏は、単なる評論家ではなく行動するビジネスパーソンだ。国内向けではないが、既に本の印税の20%を世界の慈善活動に寄付する「Chabo!」などのプログラムも立ち上げている。単に発言するだけでなく、実際に行動して社会を変えていく力を持った人物なのだ。



その勝間氏が、この本の中で貧困問題の専門家である雨宮処凛と対談をしている。なにげに私はこの章が本の中で一番面白い部分だと思っている。対談の冒頭で勝間氏が雨宮氏に身も蓋もない発言をしてしまっている所にまず笑った。

「今日は正直な話をしたほうがいいと思うので、あえて聞いてしまいますが、私、中学からずっと慶応なんですよ。そうすると、私の身の回りには、だんなが就職に困っているとか、フリーターになったとかいう人がいなくて。雨宮さんのルポを読んでも、実感としてわからないところがあります、正直にいうと」(P.166)

あちゃ〜できるビジネスパーソン勝間節炸裂!という感じである。しかし勝間氏のいい所はその後雨宮氏の話を聞いていくうちにどんどん労働問題の深刻さが分かっていって考えを変えていく所だ。最終的にリアリスト勝間和代として、労働問題解決のための具体的なアクションいくつも提言していた。

勝間氏は対談の途中で次のような発言をしていた。

「私、よく厚労省の人たちと話をするんですけど。結局当事者たちが声を上げてくれて、メディアの空気なり市民の空気が政治に伝わってこないと、官僚としては動きづらいということをすごくよくいわれるんですよ」(P.184)

私はこれは官僚の怠慢だと思う。冒頭に書いたようにフリーターやニートなどの労働問題は何年も前から議論されてきた。その間政府もいくつか施策は出してきているがどれも後手後手の印象だった。

私も組織に属していた人間として、これまでの制度を見直すという「イレギュラーな仕事」がどれほど大変かはよく分かる。ルーティンワークで硬直した組織の中で、周囲の人間の流れを変えていくのは確かに至難の業ではある。

しかし、国政の場合は、そのような対応の遅れのせいで苦しむ人が何千人、何万人(あるいはそれ以上)という単位で生まれてくるのだ。一般企業の制度改正とは訳が違う。

飲酒運転や最近だと妊婦さんの病院受け入れの問題などもそうだが、制度が改正されるまでに、いったいどれだけたくさんの人が血を流さなければいけないのだろう。

毎回、

 痛ましい事件・事故の発生→メディアの過剰報道→世論の形成→法改正

という手続きを踏まなければ制度の改正はできないのだろうか?

私は、例え理想論と言われようが、犠牲者を出す前に制度を変えていく方法を考えるべきだと思うし、自分自身そういう努力をしていきたいと思う。

そのためにも、社会問題を発見することをもっとも得意とする社会学者は社会的にもっと影響力を持つべきだと思うし、これからは勝間氏のような経済的な影響力も持った人物とも連携して、社会をよりよいものに変えていく努力をすべきだと思う。



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タグ:労働問題
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2008年10月23日

【書評】学問の対立―後藤和智『おまえが若者を語るな!』

おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154)
おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154)

先日の早稲田文学シンポジウムでも話題になっていた問題の作品。

本屋での立ち読みとネットの情報で概要は把握していたが、今回買ってきちんと読んでみることにした。

概要はamazon等を参照いただくとして、感想を述べていきたい。

まず一読して、よくここまでキツイ言葉で各界の論者を批判できたなと。
そのことにまず驚いた。

恐らく著者の後藤氏は、都市・建築学専攻の大学院生とのことなので、論壇を敵にまわしても、自らの将来には無関係だからこそできた所業なのだろう。これはこれでスゴイ。

■「根拠がない」一辺倒の空しさ

本作において、著者の主張は終始一貫している。宮台真司、香山リカ、東浩紀などの若者論者(彼の定義)は、「データによる実証性」がない思いつきの論を展開していて、それが返って社会に悪影響を与えているというものだ。

まずここで問題なのは、社会というものを統計データだけで把握できるのかということだ。社会というのは、自然現象と異なり、内面を持った複数の人間が相互行為することによって生まれる複雑な現象なのだ。

そのような複雑なリアリティを把握するためには、どうしても「解釈」という内面的な行いが必要になる。著者はそれを「自分の身の回りで起きた事例のみ取り上げている恣意的なもの」と批判するが、それでは、研究者が経験に基づいて考えることすら否定することになってしまう。

また、「データによる実証性がない」と主張しているにも関わらず、そういう著者の批判自体の「データによる実証性」はほとんどなかった。いくつか統計データは参照しているようだが、図表という形式で示しているのはなんとP.19とP.144の2か所だけだ。

要するに、著者は若者論者たちの著作の中から、それだけ抜き出すとさも頭の固い老人の意見のように思える箇所だけを抜き出し、「根拠がない」と叫んでいるだけなのである。

データがないと批判しておきながら、著者自身の「若者論が日本を生きづらい世の中にした」という主張にも、データによる実証性は全くなかったのだ。

私としては、「根拠がない」というだけでなく、「データに基づいてこういうリアリティが証明されるから、若者論は実証的に間違っている」というような意見を展開してほしかった。

■学問の対立

しかし、その一方で、著者がデュルケムやブルデューなど、統計的実証に基づく社会学の功績は正当に評価しているのには好感を持った。著者は社会学全体を批判しているのではなく、あくまでデータに基づいていない若者論のみを俗流として批判しているのだ。

私自身は、上記の通り、経験に基づく解釈でしか捉えられないリアリティもあるという立場を取っている。しかし、若者論者が展開した解釈に本当に飛躍がなかったかと言われると、必ずしもそうとはいえない。

結局この問題は、「科学とは何か」「学問とは何か」という根本的な問いに行きつくように思える。

人文社会科学と自然科学の間には深い川が流れている。歴史的に見ると、人文社会科学と自然科学は常に互いに問い直しをし合うことで発展してきた。

恣意的な解釈にいかに科学的根拠を持たせるのかという人文社会科学への問い。暴走する科学の発展は社会倫理にどのような影響を与えるのかという自然科学への問い。

今回若者論をテーマに自然科学の論者が放ったカウンターパンチを受けて、人文・社会科学の論者はどう反論するのか。書籍や雑誌での明確な発言はまだ見られない。


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2008年10月22日

感情と空気を呼び起こす写真

■撮影者の心をうつす写真

先日大学時代の知り合いの写真展に行ってきた。街の風景や市井の人々の写真が壁一面に貼られていた。交差点、団地、エスカレーターなど、撮っている対象自体は日常的に見かける普通のものばかりだ。しかし、1枚1枚がすっと心に入ってきて、あるものは深く刻みつけられ記憶に残った。

写真の持つこのような魅力とはいったい何なのだろう?対象自体はごくありふれたものなのに、なぜある種の写真は深く心に残るのだろうか。

ひとつは、写真とは撮影者の心を反映するものだからだ。ごくありふれた光景でも、(時間的にも空間的にも)「どの部分を切り取るか」に、撮影者の興味関心が反映される。

例えば、通勤途中の見飽きた新宿の風景も、晴れた日に高層ビル群が朝日を浴びて輝いている様を綺麗だなと感じるかもしれない。その光景を写真に撮って切り取ると、その「綺麗だな」という感じ自体も写真に真空パックされるのである。

■静止した世界

写真の魅力は撮影者の感情だけではない。撮影者の心が反映されるということであれば、映画などの映像も同じであろう。写真が映像と決定的に異なるのは、時間的に静止しているという所である。

メディア論では、この写真の持つ時間性に着目されることが多い。本来人間は写真のように完全に静止した世界を捉えることはできない。だから写真とは本来の人間にはありえない「異常な世界」なのだ。だから、そこには本来見えないはずの得体の知れないものが切り取られる可能性がある。

例えば、何気ない家族の風景を撮影したとして、メインの被写体として撮った子供の後ろにいた母親のほんのわずかな視線の落とし方、口元の歪み、手の位置などから、何か不気味な感情の存在を感じてしまうかもしれない。

■感情と空気を呼び起こす写真

しかし、そのような「不気味な感情」を切り取る可能性があるということは、当然、その反対の、もっと肯定的で美しい感情を切り取ることも写真にはできる。

私は大学時代にあるNPOに参加していて、国際交流を目的としたイベントの企画に携わっていた。イベントの一環で、真夏の茨城にキャンプに行ったことがあった。その時、今ある雑誌でフォトエディターをやっている一人の写真家が同行していた。

目つきが鋭く無骨な印象を与えるその写真家は、いつも黒のTシャツにハーフパンツという出立ちで、手には常に一眼レフのカメラを持っていた。

その写真家はスタッフや参加者の何気ない光景を次々に撮影していた。縦横無尽に動き回り、時に撮る相手と話をしたりしながら、今その瞬間を切り取っていく。写真家にとってはコミュニケーション能力も非常に大切なのだなと思った。

イベントが終わってから、その写真家から、撮影した写真を見せてもらった。1枚1枚が、素敵な写真だった。1枚1枚が、もしその時を逃してしまっていたら、永遠に失われてしまっていたかもしれない貴い瞬間を写しだしていた。

何気ない微笑み、何気ない驚き、何気ない寂しさ。それらは、真夏の8月の日差しの中、必死に仕事をするスタッフやイベントを楽しむ参加者の「感情と空気」を凝縮させて存在していた。

写真とは、その瞬間に含まれていた人間の感情、自然の美しさ、そしてその場所全体が生む空気のようなものすべてを、凝縮して1枚の紙に焼きつけるものだ。

良い写真は、実際の人間の経験よりも、凝縮された形で世界を保存する。だからこそ、ある種の素晴らしい写真は、見た人の記憶に深く刻み込まれ、自分の記憶以上に鮮やかに世界を残す。

私は今でもその真夏のイベントを思い出す際に、その写真家の撮った写真を思い出す。彼の撮った写真を思い出すと、その周りの様々な経験やイメージが呼び起こされる。

私は彼の写真を頼りにして、今はもう存在しないあの時間を思い出しているのである。
タグ:写真
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2008年10月20日

【速報】東浩紀の10時間シンポジウムに行ってきた

■怒涛の10時間連続シンポ

今日は、早稲田文学主催の10時間シンポジウムに行ってきた。

早稲田文学主催「10時間連続公開シンポジウム」に東浩紀、宇野常寛、佐々木敦ら参加 - CINRA.NET

連れが先週から仕事で海外に行っていたので、調子に乗って朝から晩までフル参加してしまった。疲れはしたが、途中で退屈することがほとんどない刺激的な内容だった。

パネラーには、文芸評論家を中心に多数の著名人が参加していた。特に有名所で言うと、福田和也、渡部直巳、大澤真幸、観客席には川上未映子が参加していた。そして夕方のエクストラステージにはなんと特別ゲストとして阿部和重まで来ていた。

■業界リーダーとしての東浩紀

しかし、このような錚々たる顔ぶれの中でも、やはり東浩紀氏が一番に目立っていた。(全プログラム参加という人間離れした苦行をしていたということもあるが)ほとんど「東浩紀10時間耐久シンポ」という感じだった。

私は、東氏の本は『動物化するポストモダン』と『自由を考える』(大澤真幸氏との共著)しか読んだことがなかったのだが、今回のシンポで一発でファンになった。

私は曲がりなりにも一般企業での社会人経験があるため、こういう大学院を出て、そのまま先生や評論家になってしまった人たちに、ある種の偏見を持っている。自分がやりたいことを、一部の狭い空間の中だけで完結して楽しんでいる、内輪な感じの人たちと。

自分も本当はそういう人間なので、「自分たちが楽しければいいじゃないか!」というスタンスも分からなくはない。

しかし、できるだけ多くの人を相手に本当はやりたくないこと、村上春樹風に言えば「文化的雪かき」を頑張ってやっている人たちをたくさん見てきた人間としては、「それはちょっと勝手すぎるんじゃないの?」と思ってしまったりもするのだ。

しかし、東氏は違った。東氏は、社会における批評家としての自覚を強く持っていた。もともと批評なんてそんなに必要とされないという現実を認めつつ、その中でどうすれば批評を活性化していけるのか。要するにビジネスの観点で批評界を引っ張っていこうというスタンスを持った人だった。

これは東氏の活動を知っている人にとっては、周知の事実だったのであろうが、私にとっては驚きで、単純に、とてもカッコイイと思った。

佐々木敦氏から「成功と自己実現のために批評をやっている」と指摘され、「成功と自己実現がなくて人はものを書きますかね?」とズバッと反論した所もカッコよかった。

文学や批評というものは、社会批判の側面を持っているから、どうしても「金儲け」を忌み嫌いがちだ。しかし、様々な綻びを出しながらも、今現在資本主義に代わるシステムは存在しないわけで、その中で批評の存続に危機感を抱き、業界全体を市場的にも活性化させていこうという姿勢には感銘を受けた。

■文学にもボーダーレス化の波が?

この「売るか売らないか」という問題は全体のテーマでもあって、文芸誌はもっと部数を伸ばすべきか、文芸批評はなぜ大衆小説を取り上げないのかなど、興味深い議論が展開された。

これともう一つのテーマが「インターネットと文学」だった。文芸批評は昨今のブログ、ケータイ小説、amazonレビュー、ニコニコ動画などをどのように扱えばいいのかという議論は面白かった。これまでの文学や文芸批評が持っていた境界線が崩れ始め、そのあり方が問い直されているという認識を得た。

今世界経済のボーダーレス化が進んでいると言われているが、文学にもボーダーレス化の波が押し寄せているのだ。

と、このようなことを考えていてふと思ったのが、文系理系の区別も、そろそろ本格的にボーダーレス化していいんじゃないかと思った。

文芸批評ということもあり、本日のパネリストは(おそらく)全員文系の方々だった。ここに理系の人も入っていたらもっと面白かっただろうにと思った。

ちなみに理系の人としては、『おまえが若者を語るな!』の後藤和智が議論の中には出てきた。後藤氏は東氏のような批評を「データによる実証性がない」と批判したが、これに関しては総すかんだった。

 ・東氏「もともとフランス現代思想から入ってるのに社会学的に実証性がないと言われても困る」

 ・大澤氏「データなんかでは100%の事実なんか救えない。参考程度でしかない」

 ・福田氏「内面で解釈をせず、外部のデータに依存した文章は作品として弱い」

など確かにごもっとも。私も『おまえが若者を語るな!』に関してはまだ思う所があって、自然現象とは異なる、内面を持った人間の集合である社会をデータだけで語ろうとするのは無理があると思う。これはまた別に考えたいと思う。

さて、最後に筋としてしっかり付け加えておきたいのだが、今回の10時間シンポ、これだけ豪華なメンツでなんと入場無料だった。それだけに会場は若い人を中心にほぼ満員状態だった。

はっきり言ってこの内容だったら、数千円〜一万円してもいい価値だと思う。これだけ充実したシンポジウムを無料で開催してくれた早稲田文学の宣伝(リンクはアソシエイトです、はい。)をして終わりたい。

早稲田文学1
早稲田文学1

早稲田文学編集室

※ちなみに今回のシンポジウムの模様は2008年11月末〜12月に刊行予定の「早稲田文学2」に掲載予定とのこと。




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タグ:東浩紀
posted by Tommy at 00:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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