2008年10月19日

血液型コミュニケーションの悲しみ

■血液型本の変化

少し前に血液型の本がすこぶる売れていた。それまでの血液型の本は、血液型別に性格や行動の特徴を述べ、それに対する簡単な対処法などを述べたものが多かった。(B型の人はワガママなので、なるべくマイペースでできる仕事を任せましょうなど)

しかし最近売れていた血液型の本は、血液型別に見られる一般的な特徴を独特なイラストと一緒に列挙していくだけという、いわゆる「あるあるネタ」と呼ばれる代物だった。

つまり旧式の血液型本は、血液型によって生じる性格の違いを認識した上でコミュニケーションを図ろうとする書物であったのに対し、新しい血液型本はただ単に血液型に見られる特徴を列挙し、ステレオタイプを再生産しているだけに見えてしまうのだ。

■私が血液型性格診断に反対する理由

ちなみに私自身は血液型の話には至って懐疑的である。というか血液型の話は嫌いだ。飲み会とかで血液型の話になるとうんざりする。血液型の話をしている時のあの俗っぽさといったら何なのだろう?新作を出す度にCDのみとDVD付の2パターンをファンに両方買わせようとする大衆ミュージシャンと同じくらい見ていてウンザリする。

私が血液型性格診断に反対する理由は2つある。まず一つは、あらゆる人間は、本来多様な人格を併せ持つものだからだ。どんな人間だって神経質な所はあるし、頑固な所はあるし、大ざっぱな所はあるのだ。安直な血液型による性格判断は、本来複雑で多様なはずの人間理解を浅はかなものにしてしまう。

もう一つは血液型がもっぱらマイナスのレッテル貼りに利用されることが多いからだ。テレビのワイドショーではB型の夫、B型の部下などが取り上げられ、そのワガママぶり、頑固ぶり、幼稚ぶりなど、見ていて吐き気のするようなステレオタイプを次々に垂れ流している。そして「B型男と結婚するなんて大変ねえ」なんて言うようになる。

■人はなぜ血液型の話を好むのか

そもそも人はなぜ血液型による性格診断を好むのだろうか?私の考えだと、それはコミュニケーションツールとしてそれなりに有用だからなのではないかと思う。他人が理解できないという経験は誰にでもある。人は他人と接する時に、大小様々なすれ違い、食い違いを経験する。

自分と他人との埋められない深い溝。どれだけ理解しようにも理解できない不可解な存在。自己にとって他者とは内に何を秘めているのか分からない、得体の知れない怪物なのである。

だから人は安直な血液型分類で自分とは違う他者を「わかったつもり」になろうとする。理解不能な行動をする人間をの血液型を知ることで、「だからか」と安心するのである。

血液型分類とは、他者とのコミュニケーションに不安を抱く者の悲しい性の現れなのである。しかし、この傾向も、昨今売れた血液型の本では影をひそめてきている気がする。血液型分類は、コミュニケーションツールというより、「あるあるネタ」で嘲笑するだけの対象になってしまった。

それはつまるところ、血液型によって人それぞれなんだとドライに認めるようになったのか、あるいは血液型差別にいっそう拍車がかかっているのか…、今の私には分からない。
posted by Tommy at 09:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月16日

コンビニ深夜規制論争の現状

■コンビニ深夜規制論争の現状

今朝の朝日新聞の「ニュースがわからん!」でコンビニ深夜規制の現状について書かれていた。

★「ニュースがわからん―コンビニの深夜規制はどなった?」
  (2008年10月16日朝日新聞朝刊)


※「ニュースがわからん」は「朝日新聞アスパラクラブ」でも見れる。ただしユーザー登録が必要。

この記事に主要な争点が綺麗に表にまとまっていたので、以下抜粋。

【主な論点】   

        <規制賛成派>      <規制反対派>
 
・温暖化   エネルギーの無駄遣い   規制のCO2削減効果は限定的
・生活     深夜生活が改善される   深夜営業は深夜生活の結果
・防犯     犯罪や非行の温床     深夜の明かりは安全・安心
・加盟店   24時間営業は負担重い   24時間営業は配送効率良い

コンビニ深夜規制論争に関してはブログやホームページで様々な議論がされている。話は少し脱線するが、こういう状況で争点をすっきり理解するのに新聞はやはり役立つ。インターネット全盛の時代で新聞が衰退しているといわれている時代だが、プロの記者やライターが書いた記事の価値は少しも衰えない。

■深夜規制してもCO2は削減されない

コンビニ深夜営業規制論議は、もともと昨今の温暖化批判ムードから発生した。深夜に煌々と光を放ち続けるコンビニは電気の無駄遣い以外何物でもない。だから深夜営業を規制すればCO2が削減できる、と。

ところが今回の記事によると、規制反対派は「深夜営業の規制によるCO2削減効果は限定的」と主張している。以下引用。

「通常、電力会社は二酸化炭素(CO2)をほとんど出さない原子力発電を24時間動かす一方、日中の需要ピークに合わせて石油火力の出力を上げるが、石火は出力調整が簡単な半面、CO2を多く出す」(同上)

つまり、夜間は原子力発電で営業しているので、規制してもCO2削減効果はほとんどない。本当にCO2を削減したいんだったら、日中の消費電力を抑えるような施策が必要、ということだ。

この主張は説得力がある。全国に数万店(巻末リンク@)あるコンビニの営業形態を変えるとなると莫大なコストがかかるだろう。(流通を見直したり看板を張り替えたり)それだけコストをかけてもCO2削減効果が得られないのであれば規制しても意味はない。つまり、あくまで"温暖化という論争においては"、コンビニ深夜営業は規制すべきではない。(原発の是非についてはここでは触れない。)

■人間的な生き方とは?

しかし、争点が「ライフスタイル」に移動してくると話は逆転してくる。コンビニの深夜営業は過剰労働の温床以外の何ものでもない。ある調査によると、深夜時間帯には週1回以上コンビニを利用する人は全体の13.7%しかいないという。(巻末参考リンクA)

そんな稼働率が低い状況で、人々の大半が寝静まっている時間帯に1〜2人で勤務し続けるというのは本来過酷な実態だ。これはコンビニに限らずあらゆる深夜営業の仕事に当てはまる。

それに、私の恐ろしく素人な科学知識から見ても、深夜に人間が起き続けているのは身体に良いはずがない。人間には体内リズムというものがあり、深夜には睡眠を取っていないと成長ホルモンが分泌されないのだ。(この部分かなり俗な文章になってしまった。スミマセン。)

私だったら深夜にコンビニでなんて働きたくない。仮に自分に大学生くらいの子供がいたとして、「深夜コンビニで働きたい!」などと言い出したら、「体に悪いし強盗とか来るかもしれないから辞めなさい!」と言うだろう。(私はモノを考える時に「自分だったらどうか」「自分の子供だったらどうか」と考えるクセがある。)

つまり、ライフスタイルの争点においては、深夜営業は過剰労働の温床であり、人間的な生活が出来なくなるので規制すべき。これが私の結論。

コンビニの深夜規制が始まれば最初は不便なこともたくさん起こるだろう。私だって会社員時代は毎日深夜残業をしていたので、深夜のコンビニの便利さは分かる。しかし、本来人間は夜は寝るのが当たり前なのであって、働くべきではないのだ。

だからコンビニに限らず深夜労働の趨勢はこれからどんどん減らしていくべきだ。その昔、全面真っ黒だったゴミ袋が半透明に変わる時に随分批判が出たが今となっては当たり前になったことと同じように、コンビニ深夜規制もいざやってしまえばその内平気になると思うのだが。

【参考リンク】

@コンビニエンスストアの店舗数一覧
A24時間営業コンビニのニーズはどこに!?
B[misc]コンビニ業界が深夜営業規制に反対する本当の理由



★人気ブログランキングに参加しています。
★よろしければ応援クリックお願いいたします。

人気ブログランキングへ

   
posted by Tommy at 19:37| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月15日

私がバラバラにならないように―携帯電話考A

■流動化する社会

前回の記事で、携帯電話は「心の常時接続可能状態」をもたらし、そのため接続が遮断されることに必要以上に恐怖を抱きやすいということを述べた。我ながら反技術的な意見だなと思う。そこで今回はバランスを取るために、携帯電話のプラスの側面を取り上げたいと思う。

現代は、地域社会、家庭、企業などの結び付きが弱まり、流動的な社会になっているとよく言われる。これは誰もが実感していることだろう。生まれ故郷を後にして都会に出てきた若者の孤独、家庭崩壊によって分裂する家族、事業の統廃合やリストラで不安定な職場などなど…

流動的な社会においては、これまで特定の共同体に継続的に所属していた個人がバラバラに存在するようになる。人は、ある特定の共同体(村とか年功序列型企業とか)に所属すれば、それなりに一貫性を保てていた人格(注:本当はもともと人格に一貫性などないのだが)も分裂する。

■増殖する人格

家族といる時の自分、友人(高校、大学サークル、バイトetc)といる時の自分、会社の人たち(転職している人は当然複数社)といる時の自分、ネット上の自分など人格は無尽蔵に増殖していく。

自分のいる場所と時間が目まぐるしく移り変わりゆく社会であるがゆえに、自分の人格も、ザッピングして視聴するテレビ番組の様に次々と切り替わっていく。

よく「やりたいことがみつからない」と言うが当たり前だ。こうも分刻みで切り替わっていく人格の中で、何か特定の行動を起こすに足る「やりたいこと」を見つけることは実は至難の業なのだ。

またビジネスの分野ではよく成功するための秘訣として「目標を紙に書け」ともいう。これも当たり前だ。ある目標に火がついた時の人格なんて数分後には消し飛んでしまうのである。紙にでも書いておかなければ何かを成し遂げたいと思っても、数分後には「そんな自分もいたな」で終わってしまうのである。

■遊牧民のお守りとしてのケータイ

自分がいる場所や集団が流動的になった社会では人格も無尽蔵に分裂していく。そのような社会において携帯電話とはかろうじて個人をある特定の集団につなぎとめ、バラバラになりそうな人格をつなぎとめる「お守り」のようなものなのではないか。

自分の環境(circumstance)が刻一刻と移り変わっても、携帯電話を開けば過去友人と撮った写真が大量に登録されている。たわいのないメールのやりとりも記録されている。そして例え自分がどこに行ったとしても連絡しようと思えばいつでも連絡が取れる。

要するに若い年代を中心に(「若者」という言葉を使うと途端にステレオタイプな感じになるからここでは使わない)ケータイが手放せないというのは、バラバラになりそうな自分をつなぎとめておくためのツールとしてなくてはならないメディアになったからなのだ。



★人気ブログランキングに参加しています。
★よろしければクリックお願いいたします。

人気ブログランキングへ



posted by Tommy at 18:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月14日

その先にはたくさんの人たちがいるはずなのに―携帯電話考@

■携帯電話によって失われた経験

携帯電話の登場で失われた経験も当然ある。それはコミュニケーションを「待つ」という経験だ。例えば、電話が登場する以前は人々のコミュニケーション手段は専ら手紙であった。手紙という通信手段は電話と比べて遥かに時間がかかる。送ってから返事が来るまで2〜3週間、場合によってはそれ以上時間がかかってもおかしくない。

コミュニケーションにおいて「待つ」という経験が減少すると、顕著に影響が現れるのが「恋愛感情」だ。手紙の場合、恋人への思いを綴った手紙を送ってから返事が届くまでの長い期間が、恋人への恋心を醸成した。

しかし電話の登場によって、相手の声が聞きたいと思ったらすぐに電話をしてその欲求が満たせるようになってしまった。いわゆる「欲求の即時充足」と呼ばれる現象だ。

固定電話から携帯電話への移行の際も人間の経験は一変している。例えば固定電話しかなかった頃は、深夜に恋人に電話するために電話ボックスに順番待ちの列ができていたりしたという。(吉見俊也他『メディアとしての電話』)

また、固定電話は電話をしても相手以外の人間が出る確率が少なからずあった。だから彼女に電話する際は、彼女の父親が出はしないかと恐れたり、逆に一発で彼女が出てくれた際は「ラッキー!」と思ったり。そういう経験も携帯電話の登場で綺麗さっぱり無くなった。

私はテクノフォビア(技術恐怖症)でも、反進歩主義者でもない。むしろ新しいメディアの発達には胸を躍らせることの方が多い。しかしそれでもふと過去を振り返ると、あまりに多くの経験が消えていったことに驚き、「かすかな寂しさ」を感じているだけなのだ。(「郷愁」という言葉を使おうか迷ったが嘘くさいのでやめた)

■携帯電話が与える孤独

話をしたい時に直ぐにその欲求を満たせるということは、言い換えれば、いつでも「つながる」ことが可能な状態ということだ。更に換言すれば「心の常時接続可能状態」と言えるかもしれない。(「心の常時接続」という言葉自体は大学時代にあるメディア論専門の教授から学んだ。)

「心の常時接続可能状態」とは、今手に入している携帯電話を介して無数の家族、友人、恋人(あるいは会社や顧客)といつでも「接続」しうる状態を指す。電話帳を開き、目当ての人の名前を選択し、ボタンを押す。それだけでいつでもどこでも「つながる」ことができるのである。

この状態は、逆に「接続」が遮断されてしまった場合(あるいは遮断されていると感じた場合)に深刻なダメージを人々に与える。携帯電話を見つめながら「誰からも連絡が来ないな」と一抹の孤独感を味わったことは誰にでもあるはずだ。2〜3回ボタンを押せば直ぐに電話がかけられるにも関わらず連絡が来ないという感覚は、都会においては時に耐えがたい「存在の軽さ」をもたらすことがある。

私自身はかなり自己完結している人間なので、携帯電話は、正直鬱陶しく思うことの方が多い。自分からかけることもほとんどないし、たまにかかってくると、それまで熱中していたことが中断させられたりして腹を立てたりする。(寂しい人間だ)

しかしその一方で携帯電話がもたらす「存在の軽さ」に本当に耐えられない人もいる。現にあの秋葉原事件の容疑者は、携帯サイトでの書き込みを無視されたこと絶望し、内に歪んだ憎悪を抱いたのではなかったか。

「心の常時接続状態」は「つながっている」という安心(見せかけの?)と同時に、「つながっていない」という深刻な孤独感、疎外感ももたらす。我々は目まぐるしいスピードで発達しているネットワーク社内の中で、「そんなにいつもつながっている必要はないんだ」「人間は所詮ひとりなんだ」という当たり前の事を再認識する必要がある。



★人気ブログランキングに参加しています。
★よろしければクリックお願いいたします。

人気ブログランキングへ
タグ:携帯電話
posted by Tommy at 11:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月13日

見えない敵を恐れる住民―ゲーテッド・コミュニティ

■日本に台頭するゲーテッド・コミュニティ

本日の朝日新聞朝刊1面の「囲われた街 買う安心」で日本初の「ゲーテッド・コミュニティー(要塞の街)」が取り上げられていた。

「兵庫県芦屋市の浜辺にあるベルポート芦屋。マリーナを備えたこの住宅地は、日本初とされるゲーテッド・コミュニティー(要塞の街)だ。敷地は甲子園球場のグラウンドの1.5倍。外周は高さ約2mのフェンスと赤外線センサー、監視カメラ数十代に守られ、正面ゲートの脇では数人の警備員が24時間態勢で目を光らせている。」(朝日新聞2008年10月13日朝刊)

ベルポート芦屋の他にゲーテッド型住居として紹介されているのは以下。

広尾ガーデンフォレスト
マスタービューレジデンス
グローリオ芦花公園

上記リンクの通り、ゲーテッド型住居のターゲットは主に富裕層だが、
中にはマザーヴィレッジ岐阜の様に中流階級向けの住居もあるという。

■ゲーテッド・コミュニティと格差

朝日新聞がなぜ1面でゲーテッド・コミュニティなどを取り上げるのだろうか。紙面では、「周辺地域との隔絶」、「格差の当然視」などが問題とされていた。「格差の当然視」というのは、早大教授の齋藤純一氏の見解で、ゲーテッド型住居の台頭は、「効率を優先し、格差拡大を当然視する現代日本の象徴的な変化」だという。

つまり、朝日はネオリベラリズムに端を発する格差拡大に批判的なので、今回の特集もその意向を反映してのものだろう。そのせいか全体的にゲーテッド・コミュニティに対する批判的なムードが記事から漂っている。

区画全体をフェンスで囲い、内部を無数の監視カメラで監視となると、確かに周辺住民から見れば異様な、不気味な光景であろう。しかし、私はそういう、周辺から隔絶されてでも安全な家に住みたくなる人の気持ちも分からなくはないなと思っている。

■メディアが煽る「不安」

私たちはメディアを通して日々世界中の人たちの「死の運命」を目撃している。犯罪や交通事故のニュースを見るたびに「自分ではなくてよかった」と安堵すると同時に、「次は自分なのではないか」という死神からの視線に怯えているのである。

実はメディアによる事件事故の報道はそれ自体過剰になると、必要以上に視聴者の恐怖心を煽るとして問題視する意見もある。例えばマスコミ研究の分野でガーブナーは、テレビ番組の暴力シーンを継続的に視聴することで、視聴者の社会認識が「培養」され、社会に対する危険度の認識が高まることを指摘した。(吉見俊也『メディア文化論』など)

つまり、ゲーテッド・コミュニティの様な心配症な富裕層向けの住居の需要が高まるのも、テレビや新聞をはじめとしたマスメディアの過剰報道が原因とも言えるのだ。ゲーテッド・コミュニティの住民はマスコミが煽る見えない敵の存在に怯え、せめてもの心の安堵を手に入れるためにその豊かな資産で安心を買っているわけだ。

■そして完全なる監視社会へ

毎日のように「人の死の運命」のシャワーを浴び続けている今のメディア環境は、やはり異常なのではないかと思う。私自身は「なんでみんな平気な顔して生きていられるんだ?」と周囲の人間に対して思ったことがあるが、みんな内心「見えない敵」に怯えているのである。

それではマスコミから事件事故の報道を一切排除すればいいのかというと、それはそれで問題になる。マスコミの過剰報道は問題だが、取り上げている事件事故自体は、この同じ空の下で現実に起こっている出来事だからである。

結局我々はこれからも「見えない敵」の恐怖を少しでも和らげるため、企業が提供する「安心プラン」に金を払い続ける。そして最終的に我々は安心と引き換えに国家や企業による徹底的な監視と管理を何の懸念もなく受け入れるようになるだろう。映画マトリックスの機械に支配された世界を彷彿とする完全なる監視・管理社会が台頭するのである。


★人気ブログランキングに参加しています。
★よろしければ1日1クリックご投票をお願いいたします。

人気ブログランキングへ
posted by Tommy at 19:32| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月12日

人間より「人間的」なロボットは生まれるか―ブロガーロボの登場

■ついにブログを書くロボット登場!?

★バンダイ、“ブロガー”ロボットを開発

バンダイは、パシフィコ横浜で開催中のパートナーロボット総合展示会「ROBO_JAPAN 2008」でネット対応のパーソナルロボット「NetTansorWeb」(ネットタンサーウェブ)を展示している。2006年に発売した「NetTansor」の進化版。写真を撮り、ブログにアップする“ブロガーロボ”に成長した。

記事を読んでまずぞっとした。バンダイの開発したネット対応のパーソナルロボット「NetTansorWeb」(ネットタンサーウェブ)は、何と自分に搭載されたカメラを使ってブログを書くことができるというのだ。

内容を見てみると、残業している社員を写真に撮ってアップする「残業ブログ」や、毎日の夕食を紹介する「今夜の晩御飯」など結構本格的だ。

写真を見ると、ブログの形式としては「モブログ」に近い。次々と撮影した写真に短いコメントを添えるという形式だ。コメント内容が微妙とはいえ、そこらのジャンクブログ(造語)やスパムブログよりまともなんじゃないかと思える。

一般的にはブログを書くということは知的活動とされている。自分が経験したことや考えたことを文章にしてアップするという作業は人間にしかできない活動に思える。しかし、モブログ形式のブログであればもはやロボットにも書けてしまえるのだ。

■人間とロボットの違いとは?

こういう新しい機能を持ったロボットが登場するたびに、「人間的と何か」と考えてしまう。人間とロボットを区別する要素はいろいろあるだろうが、ひとつは「感情の有無」が挙げられるだろう。

しかし、私は予てからロボットにも限りなく感情に近い要素を持たせることが可能だと考えてきた。例えば、自身と人間の距離を測定して反応ができるロボットがあるとする。そして、そのロボットの近くにいる人間が一定の距離以上離れると自動的に「行かないで!寂しい」としゃべるようにプログラミングするのである。

するとどうであろうか。ロボットから「行かないで」と言われた人間は、きっとそのロボットに「寂しさ」という感情が芽生えていると錯覚するのではないであろうか。

あるいは人間とロボットの区別として「善悪の判断」を挙げるとするとどうだろうか。この場合も、ロボットに倫理感に近いプログラミングをすることは可能に思える。

例えば、刑法の全データをインプットさせ、「暴行」や「脅迫」など視覚的に認知可能な行為(体温や脳波の認識などでもよい)のあらゆるパターンをプログラミングする。そうすると、ロボットの目の前で母親が子供を叩こうとした際に、「子供を叩いてはいけません」と言うロボットが生まれても不思議ではない。

■人間的とは何か

以上は、単にSFが好きなだけのバリバリの文系が考えた絵空事に過ぎない。しかしまったく実現不可能なことではないように思える。現にブログを書くモブログを書くロボットなんて誰が想像しただろうか。(文章を自動作成するプログラムは存在したが、あれはどちらかと言えばコラージュの域を脱していないだろう)

これからも我々は、ロボットが進化する度に「人間的とは何か」という深刻な問いに悩まざるを得ないだろう。刺激に対する反応という短絡的な行動が暴発し、身勝手で非倫理的な犯罪をする人間より、よっぽど人間的なロボットが生まれる日もそう遠くないのかもしれない。


★人気ブログランキングに参加しています。
★よろしければ1日1クリックご投票をお願いいたします。

人気ブログランキングへ
posted by Tommy at 12:12| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月10日

10月の晴れた昼下がりに新宿のカフェにて

■知的レベルの異なるカップル

昨日新宿のカフェで本を読んでいたら、二つ隣りの席に若い男女が座った。話しぶりから言ってつき合う一歩手前のカップルという感じだった。平日の午後なのでおそらく大学生か専門学校生だろう。私は二人の話を聞くともなく聞いていた。

人の話というのは、全く関係のない第三者が聞くと本当にくだらなくことのように思える時がある。血液型がどうとか、あいのりがどうとか。自分が当事者だとその場をやり過ごすために話さざるを得なくなるのだが。

その二人の場合はちょっと違って女性の方が何やら人間関係に関するヘビーな相談事を持ちかけているようだった。はっきり言って知的レベルは女性の方が高そうだった。それに対して男の方は中身がなさそうで、意味のある返答もできず相槌を打つばかりだった。

■中身のなさそうな男がんばる

その内に男の方が「俺の知り合いの社長がさあ」とか「どこどこ大学の経済学部出身の友達がさあ」とかやたら「俺にはステータスの高い知り合いがたくさんいますよ系」の話をしだした。いるいるこういうのと思ってしまった。

なんで男というのは知り合いを引き合いに出してまで自分に箔をつけようとするのだろうか。「そんなすごい人と知り合いなんだ〜」とでも言ってほしいのだろうか。仮にそう言ってくれる女性がいたとしても、内心はそんな男の底の浅さなんて当然見抜いていて幻滅しているのである。

こんなことを連れに話すと「いるよね、そういう男って」と同意見。しかし「まあ女の子にも本当におバカな子はいるけどね」と。二人しておバカだったら、そこでループが出来て自己完結してそれはそれでめでたいことなのかもしれない。

私は「無理して格好つけなくてもいいのに」と思ってしまう。世の女性がみんな「そんな背伸びしているタクヤ(仮名)がカッコイイ」なんて思ってくれるはずないのだ。何事も自然が一番だとつくづく思う。


posted by Tommy at 22:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月09日

ついにメール内容まで解析!?―Gmail実験機能

■Gmail実験機能「Mail Googles」

★Yahooニュース―「メール送信後に後悔」を未然に防止、Gmailが実験機能

米Googleは6日、Webメールサービス「Gmail」において、送ってから後悔するようなメールの送信を未然に防ぐ機能「Mail Goggles」の提供を開始した。一目惚れした女性に告白したり、昔の彼女に復縁を求めたりと、勢いに任せて送信した後に後悔することを防げるとしている。(Impress Watch)

はじめタイトルを見たときはかなり驚いた。ついにGoogleはメールの内容まで解析して、「後悔しやすい内容」と判断されたメールにアラートを出す機能を開発したのか、と。

しかし…実際に開発されたのは「Mail Goggles」と呼ばれる機能で、この機能を有効にしていると、メールを送信時に本当にそのメールを送りたいのかどうかの確認、また心理状態が正常かどうかを判断するための簡単な計算問題などが表示されるとのこと。

■メールで破綻する人間関係

確かにこの機能は「メール送信前に沸騰した頭を冷やし我に返させる」ためには一定の効果がある気がする。この新機能によって本当に「後悔するメール」の送信を防ぐことができるかもしれない。

感情に任せたメールの破壊力は凄まじい。まさしく「ディープインパクト」と言ってもよいくらい、人間関係の何もかもを木っ端微塵に粉砕しうる恐ろしいパワーを秘めている。かく言う私も感情的なメールの被害者にも加害者にもなったことがある。

被害者として甚大だったのが大学時代に所属していた組織の上司からのメールだ。詳しくは書けないが、一言でいえば罵倒以外の何物でもない代物だった。それを読んだ私はディスプレイの前で心拍数が上がり、怒りに手足が震えたのだった。数分後にはその組織を脱退する旨を書いたメールをその上司に送りつけていた。

加害者として甚大だったのはやはり恋愛関係のメールだ。私は彼女から予期せぬ別れ話をされた時の男ほど情けなくて弱い者はいないと思っているのだが、私も当然そういう経験はしてきた。これも詳しくは書かないのだが、救いようがないくらい幼稚で身勝手なメールをそういう時に送ってかえって崩壊を早めてしまったりした。そういうものだ。(違う?)

■メール内容解析は目前に迫っているか

このような感情的なメールを送信しないよう、全てのメールに「おいちょっと待て。頭冷やせって」と言ってくれる機能としてであれば、「Mail Googles」は全く問題ない。むしろ歓迎すべき機能だといえる。

しかしこれがもし、「おいちょっと待て。その内容はまずいだろ。頭冷やせって」という機能になったら怖いなということである。つまり、Googleが個々人の送るメールの内容を解析し、感情的な言葉を表わすキーワードや、「!」マークの数などから判断して、「正常な心理状態ではない」と判断されたメールにアラートが出る機能になったら怖いぞということだ。今のGoogleの技術力からすれば、この程度朝飯前のようにも思える。

メール内容の解析が行われるようになれば、本格的な監視社会が台頭することになる。テロリストのメール連絡を防ぐためなどと主張されるのであろうが、それによってプライバシーが失われるのは免れない。

そしてmixiやブログのログ解析ツールなどで、自分自身のネットでの行動を容易に他人に公開することに慣れている私たちは、メール内容解析くらい簡単に容認してしまいそうなのもまた恐ろしい。


posted by Tommy at 20:18| Comment(0) | ウェブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

iPodとポッキーの類似性について

■新型iPod発売

先日新型iPodが発売された。今回の目玉は何といってもnanoだろう。新しく加速度センサーが内蔵されて、縦長の長方形の形をしたnanoを横に傾けると自動的に画面も横向きに切り替わり、Cover Flowが表示される。

新しい技術というわけではないのに、いちいちボタンを押すことなく本体を傾けるだけで反応するスムースさは、やっぱり気持ちいい。新宿のビックカメラで実際に手にしてみると「おお!」と思ってしまった。

しかし…私はちょっと買おうという気にまではならなかった。(いやまあ、お金に余裕があれば買ってもいいんだけど)加速度センサーも魅力的ではあるのだが、所詮マイナーチェンジに過ぎない。大容量の記憶領域に大量の楽曲をインポートして、クリックホイールで自由に曲を選んで聴くというiPodの本質的な部分は初代iPodでもう完成されているのだ。

■iPodの革新性

初代iPodは正真正銘の革命的な音楽プレーヤーだった。人間と音楽の関係を根本的に変えたと言っても過言ではない。それまでの音楽再生機は、MDに代表されるように、長くてもアルバム1枚分程度の単位で楽曲を管理していた。リスナーは良かれ悪かれ、MD1枚単位の視聴に制限(あるいは支配)されていたのだ。

このリスナーの拘束を解き放ったのがiPodだ。(アップルはいつも支配からの解放というイメージを作るのがうまい)リスナーはもうメディアの単位に縛られることなく、自分の持っているCDをほとんどすべてiPodに記録して持ち歩けるようになった。

インターフェースの影響も大きい。ご存知の通りiPodは「クリックホイール」と呼ばれる独特の円形のインターフェースを装備している。リスナーはそれまでのMDプレーヤーのように煩わしいボタン操作を経ることなく、クリックホイールをくるくると回せば聞きたい楽曲にすぐに辿り着くことができる。

これは革命的な変化だ。iPodの登場でリスナーは地球上のどこにいても、自分の持っている楽曲のほぼすべてにアクセス可能になったのだ。ここで私自身の、iPodによる音楽の聴き方の変化をいくつか列挙してみる。

・アルバム単位ではなく楽曲単位で曲を聴くようになった。
・その時の気分で聴く曲を変えるようになった。
・普段聞かないようなジャンルの曲まで聴くようになった。
・聴くためというより、記録曲数を増やして自分のライブラリを
 充実させるためにCDを買う・借りることもでてきた。

などなど、他にもありそうだが、iPodによる音楽視聴の変化の多様性を知るには何といっても「ほぼ日」の特集ページが秀逸だ。

★iPodであそぼう。

■iPodとポッキーの類似性

これを読むと、本当にiPodは人間と音楽の関係を変えたと言っても過言ではないと思える。それは例えて言えばポッキーの登場にも似ている。ポッキーはプレッツェルの周りにチョコをコーティングすることで、手に持って食べようとすると手が汚れて食べにくいというチョコの特製を克服した。ポッキーはチョコレートの制限から人間を解放し、チョコと人間の関係を変えたのだ。(おおげさかもしれないが)

この観点から今回の新型iPodを見ると、「ムースポッキーの新しい味」が出た程度のインパクトしかない。(いやそれでも食べたいことは食べたいのだが)ポッキーのポッキーたる所以が初代ポッキーの時に既に確立されていたように、iPodは初代iPodの時に既に完成されてしまっていたのだ。

それにしても、ここまで書いてきて1点気になった点がある。それはiPodに対して「リスナー」という単語を使うことが、何だかそぐわない感じがしたのだ。どちらかというと「ユーザー」という言葉がぴったりなのかもしれない。これはiPodによって単に音楽を「聴く」というよりも、音楽をコンピューター管理して「利用する」というような形式に移行しているということなのかもしれない。

これについて村上春樹が興味深いことを書いている。

「今では多くのランナーはiPodを聴きながら走っているが、僕は使い慣れたMDの方が好きだ。iPodに比べればいささか機械が大きいし、情報の容量は格段に少ないが、僕にはじゅうぶん事足りる。今のところは僕はまだ、音楽とコンピューターをからめたくはない。友情や仕事とセックスをからめないのと同じように」
(村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』P.28)


iPodは音楽を聴くという行為に新しくコンピューターを介入させた。それは、チョコレートに新しくプレッツェルを介入させたポッキーにも似ている。チョコレート好きの人の中には「俺はプレッツェルが嫌いだ。チョコの味だけを楽しみたい」という人だって当然いるだろう。

新しい技術の登場は、往々にしてそれ以前の技術を愛する人たちを「考え方が古い人たち」と見なしがちだ。しかしそれは間違っている。古い技術を愛する人たちは、案外「チョコレートだけを楽しみたいんだよ」と言っているだけなのではないか。そこにまたひとつ、技術の発達によって失われてしまう経験が隠されている。(まあ私はチョコだけもポッキーも好きなのだが)



タグ:ipod ポッキー
posted by Tommy at 10:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月07日

また少年に戻る時が来た―エヴァンゲリオン「破」公開時期決定

■エヴァンゲリオン新劇場版:破 2009年初夏公開

ヱヴァンゲリヲン新劇場版ブログ:破

昨年秋の衝撃が再び戻ってくる。エヴァンゲリオン新劇場版の第2段「破」の公開時期が2009年初夏と告知された。

私は前作の「序」でエヴァを初めてきちんと観たのだが、観終わった後に、まるで良質な文学を読んだ後のような「心の傷」を受けて、しばらくその余韻(後遺症ともいう)に浸ったのだった。

「序」よりも前に何回かTVシリーズをかいつまんで見たこともあったのだが、その時は「なんだこりゃ?」という感じだった。ストーリーなんてまるで把握していないのに、なぜか最終回は見ていて、例のラストシーンの印象が強く残っていた。

「序」を観た後はまるで熱にでも浮かされたかのように、テレビ版と(旧)劇場版のDVDを一気に観た。当時私は過剰残業が恒常化しているような職場にいたので、毎日深夜に家に帰って眠い目を擦りながら夢中になって観たのだった。

■世界からの拒絶

エヴァに関するあらゆる言説がネットにあふれている中で、今さら批評をしようという気はさらさらない。今自分がやりたいことは、エヴァによって受けたあの「心の傷」を、なるべく正確に捉えて、文章にすることだけだ。

主人公のシンジは世界と折り合いをつけることができない内向的な中学生だ。人と接することに臆病で、父親から愛を受けられなかったことにコンプレックスを持っている。世界を救うためにエヴァに乗ることに疑問を抱き苦悩し続ける。

しかし、使徒との数々の戦いと、周囲の人々との交流の中で、シンジの心に異変が生じる。シンジは苦悩の末に世界を受け入れることを決意する。ここまでがTV版のストーリーだ。

希望(手垢のついた言葉だが)の片鱗が見えたハッピーエンドで幕を閉じたエヴァは、旧劇場版で真の結末を迎える。使徒量産型との激戦の末発動された人類補完計画の影響で、大切な人たちが失われた世界。世界を受け入れる決意をしたシンジは、激戦の末、誰もいなくなった地球で、「世界」から「拒絶」される所で物語は終わる。

あの瞬間に感じた気持は本当に「心の傷」としか言いようがない。傷と言っても心の奥まで届く相当深い傷だ。命がけの戦いと、人との交流の中で、心の壁(ATフィールド)を解いた先に待っていたものが、世界からの拒絶だなんてあまりにも悲しすぎる。

■また少年に戻る時が来た

思春期とは危機の時代である。子供時代の無垢な世界の幻想が解け、残酷な現実を目の当たりにする。そこでは誰もが世界の前に絶望し、打ちひしがれてしまう。

しかし、大抵の人たちはそんな世界との衝突をいつのまにか克服し、大人になっていく。大人になるということは、思春期に自分を危機的状況に陥れた世界と和解することなのである。

しかし…私たちは本当に残酷な現実を克服したのであろうか。何となく見ないふりをしたり、何も感じないふりをしたりしている内に、なあなあにやり過ごしてきてしまってきただけなのではないか。

エヴァを観ていると、私たちはもう一度あの少年(あるいは少女)時代の「世界との折り合い」という切実な問題に引き戻されていく。

果たしてシンジが「おめでとう!」と皆から祝福された世界は、一瞬の光でしかなかったのであろうか。世界との和解は儚い幻想でしかなかったのか。「破」のオリジナルの展開が待たれる。



posted by Tommy at 21:51| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。