2008年11月28日

【書評】ウェブサービスから見た日本社会―濱野智史『アーキテクチャの生態系』

アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか
アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか

濱野智史氏の『アーキテクチャの生態系』は、ニコニコ動画やmixiなど、現在ネット上で跋扈している数々のサービスを鋭く分析し、日本社会論にまで発展させるという意欲的な作品である。

版元はNTT出版、真っ白でシンプルな表紙に350ページを超える大部という装丁から、一見かなり難解な専門書のように見受けられるがそんなことはない。スマートな「ですます調」で、これでもかというくらいに懇切丁寧に、数多のウェブサービスの本質を説明してくれる。新しい概念の説明の後には必ず「つまり」と続き、簡明な言葉で要約が付されている。非常に親切で手堅い作りだと思った。

内容に関しては、ひたすら面白いの一言。私はよい論文というものは、読者の脳内に次々と知の発火現象を起こして、興奮を与えるものだと思っているが、本書はまさにそれである。Google、2ちゃんねる、mixi、ニコニコ動画、などこれまで個別バラバラだった知識が次々と頭の中でつなぎ合わさり、視界が開けた気分になった。

一例を挙げるとするならばやはりニコニコ動画の分析であろう。濱野氏はニコニコ動画のコメント機能に注目し、実際は、各ユーザーは別々の時間に視聴しているのにも関わらず、コメントを映像と同時に表示することによって、あたかも同じ時間に視聴しているような感覚を生み出しているという。

「ニコニコ動画は、動画の再生タイムラインという『共通の定規』を用いて、<主観的>な各ユーザーの動画視聴体験をシンクロナイズドさせることで、あたかも同じ『現在』を共有しているかのような錯覚をユーザーに与えることができるわけです。」(P.213)

濱野氏はこの現象を「疑似同期」と名付けている。この他にも本書には、「招待性型アーキテクチャ(mixi)」「操作ログ的リアリズム(恋空)」など、啓発に富む魅力的な概念が多数登場する。

そしてそれら多数の現象が、社会学者の北田暁大氏の言う「繋がりの社会性」という概念を共有していることを濱野氏は指摘する。「繋がりの社会性」とは、コミュニケーションの内容よりも繋がっているという事実事態を重視する日本人に特徴的な行為とされる。ここから、日本のウェブサービスに通底する日本社会の特性が浮かび上がってくるのである。

一点気になったことは、このように各国の文化と結び付き独自の進化を遂げている「アーキテクチャ」の背後に、果たして本当に「政治性」は含まれていないのかということだ。

「アーキテクチャ」とは、受けての行動を物理的に制御する「環境管理型権力」と説明される。例えば2ちゃんねるの場合は、最大投稿数制限などの制約により、ユーザーの行動は物理的に制御される。

濱野氏は、このようなアーキテクチャの「環境管理型権力」という性質を認めながらも、その背後に政治性のある権力は存在しないと言う。

「私たちがいま目の前に見ているウェブの生態系は、どれだけ目的合理的に進歩しているかのように見えたとしても、それはあくまで偶然の積み重ねによって生まれたものであり、しかもその進化の方向性は多様なものでありうるはずです。」(P.72)

濱野氏は最終章で、むしろアーキテクチャの持つ「環境管理型権力」を肯定的に捉え、社会を変えていくという構想を掲げている。それは「道具立て」を通じて社会を変えていくという、まさに「ハッキング」のイメージだと濱野氏は言う。

極めて実践的かつ楽観的で私も基本的には賛同したいのだが、それでもやはり「アーキテクチャ」の背後には楽観できない「権力」が潜んでいるのではないかと勘ぐってしまう。Googleに代表される、個人情報の監視やそれに基づいた広告戦略など、いわゆる「資本の論理」にはもっと注視をしなくてよいのか。このような点に関して、今後の濱野氏の論考に更に期待するのと同時に、私自身も自分なりに考えていきたいと思う。


【関連リンク】

濱野智史の「情報環境研究ノート」 | WIRED VISION
濱野智史の個人ウェブサイト@hatena
posted by Tommy at 13:27| Comment(0) | 本(社会学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月26日

カップルの新しいコミュニケーション方法A―精密コードと限定コード

■精密コードと制限コード

前回の記事の補足。カフェで向かい合わせになって、互いに会話を交わすことなくただひたすらPSPをプレイし続けるカップルは、ゲーム世界で通信プレイをしていた可能性があるので、そこには「内容」のともなったコミュニケーションが存在する。

しかし、街を見渡してみると、それこそ向かい合って互いに一言も口を利かずケータイをプレイしているだけ、マンガを読んでいるだけというカップルも結構見かける。

このようなカップルはお互い話すことがないから黙っているのだろうか。それとも、「一緒にいてラク」な恋人は、単に孤独感を紛らわすためのツールに過ぎず、前に座らせておいて後は自分の好きなことをやろうというスタンスなのだろうか。

無論、全ての若いカップルがこうかというとそんなことはなく、他愛もない話に花を開かせている者たちも多い。

これはあくまで私の仮説だが、会話するカップルと会話しないカップルは、イギリスの社会学者兼、言語学者バーンステインの言う「限定コードと精密コード」に関係しているのではないか。

★限定コードと精密コード(Wikipedia)

「簡単に言えば、精密コードは、物事を客観的、抽象的、人格的に述べるコードであり、限定コードは、物事を主観的、地位的に述べるコードである。」

更に社会学小辞典(有斐閣)によると、限定コードとは、「相対的に単純な語彙や統語構造の発話」を規制するコードとも記述されている。

この議論は単純に「労働者階級の子供は言語能力が優れていない」という身も蓋もない意見になってしまうので、安易に持ちだすのは良くないのかもしれない。

しかし、この概念をあえてカップルに当てはめてみると、精密コードのカップルは活発に会話を交わし、限定コードのカップルは特に会話もなく黙々と「主観的な」メディア世界に没頭することができると考えられるのではないか。

限定コードのカップルが、やがて結婚し子供ができても親がこの調子だと子供も限定コードに育つ可能性が高い。かくして、文化格差は再生産されていくのだ…。




posted by Tommy at 23:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月25日

カップルの新しいコミュニケーション方法―向かい合って無言でPSPをやる

■無言でPSPをやり続けるカップル

以前とあるカフェで、若いカップルが向かい合わせに座りながら、お互いほとんど口をきかず黙々とPSPをやっていた。本当に時折、ゲームに関してちょこっと会話したかと思うとまた直ぐにゲームの世界に戻ってしまった。若い男女が向い合せになれば、何らかの会話を楽しむか、もしくはケンカしていてむっつり押し黙っているか、どちらかだと思っていた私は、少なからず衝撃を受けた。

これは中野収氏の名著『メディア人間』に登場した、バスに乗り合わせた学生が互いに会話することもなくウォークマンを聞くというあの「メディア人間的」なコミュニケーション形体なのではないか。

メディア人間―コミュニケーション革命の構造
メディア人間―コミュニケーション革命の構造

電子メディアが発達する以前は、コミュニケーションというものはFace to Faceのものがメインだった。(手紙などはあったが。)それが、電話、テレビ、ウォークマン、インターネットなどの発達により、メディアを媒介した新しいコミュニケーションが次々と誕生している。

それらのメディアを介したコミュニケーションを、一概に「Face to Faceより劣るもの」と決め付けることはできない。

例えば、ブログを介したコミュニケーションなどは、自分自身の趣味や価値観をFace to Faceの時よりも遥かに的確に伝えられるということもあるのではないか。実際に対面して、自分とはこういう人間ですと説明するよりも、自分のブログを相手に読んでもらった方が、遥かに自分という人間を理解してもらえるというケースもあるのではないか。

今回の対面状況でのゲームを介したコミュニケーションもそうだ。プレイしているソフトは確認できなかったが、例えば「モンスターハンター」であったとしたら、2人で強力して巨大モンスターを狩りに行く冒険をしていたかもしれないのだ。片方が剣を駆使して必死にモンスターと戦い、もう片方が傷ついた相方を魔法で回復させている。この無味乾燥な現実世界を離れて、2人で壮大な冒険の経験を共有していたかもしれないのだ。

電子メディアの発達は、従来のコミュニケーションの延長としては捉えきれない、質的な変化を確実にもたらしている。我々は、従来の「Face to Face」=正、「メディアコミュニケーション」=誤という単純な二項対立に陥ることなく、この新しいコミュニケーションを正確に分析していかなくてはならない。
posted by Tommy at 23:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月24日

池田信夫氏の「『意味づけ』の病」エントリを批判する

■飛躍した批判

前回の記事で私は、元厚生事務次官夫妻殺害事件の過剰報道を批判する池田信夫氏の意見に賛同したが、今回のはちょっといただけないと思った。

★「意味づけ」の病(池田信夫blog)
「元厚生事務次官殺害事件は、やはり頭のおかしい男の場当たり的な殺人のようだ。ワイドショーでは朝から晩まで、いろんなコメンテーターがこの事件の「意味」を解説しているが、それは無駄である。「犬の仇討ち」というシュールな動機も、本当かどうかはわからない。むしろ統合失調症のような疾患を疑ったほうがいいだろう。」

「過剰報道」という「量」の問題を、「意味づけ」という「質」の問題まで飛躍させてしまっていて、一転して暴論になってしまっている。

entryでは、マスメディアの過剰な意味付けだけでなく、あろうことか、わざわざ秋葉原事件に関する社会学者らの論考集まで吊るしあげて「読んではいけない」と批判している。

犯罪に過剰な意味付けをすべきでないという池田氏は、今回の犯人を「統合失調症患者」で片づけてしまおうとしている。entryではオウム事件にも触れられていて、「集団的な精神病」という一言で片づけてしまっている。

これは明らかに暴論だ。

私に言わせれば、池田氏のように犯罪者を「精神異常者」の一言で処理してしまうのは、あまりに事態を短絡的に捉え過ぎているだけでなく、精神病患者へ「異常者」というレッテルを貼りつけ排除する事態にも繋がる危険な考えだ。

■社会的意味づけの意味

では逆に犯罪に対して意味付けを行うことは正しいことなのだろうか。

これに関しては非常に複雑かつ込み入ったテーマなので、とても1entryでは考えつくせないので、素描だけ述べておく。

犯罪者に意味付けをすることは「諸刃の刃」である。

犯罪者の動機を深く分析し社会的な意味を考察することは、人々に「自分自身も犯罪者に通じる部分があるのかもしれない」という自省させる、いわば啓発的な効果が期待できるのだ。

その一方で、犯罪者の動機分析は逆に、ある特定の人物に対しては「自分と同じ思いを持った人間がいた」という刺激を与えてしまい、類似事件を発生させる引き金になってしまう危険もある。

しかし、それでも私は、犯罪者の社会的な意味を考えることは無駄ではないと信じている。そこには、犯罪者を単純に「きちがい」とか「異常者」として片付けることでは見えてこないリアルが存在しているはずなのだ。

そして、もしそのようなリアルが存在しないのだとしたら、私たちは社会をより良いものに変えていくための一切の契機を持たないことになってしまう。常に一定の割合で「異常者」が発生することを仕方ないものとして怯え続ける社会など誰が望むだろうか。

犯罪の社会的な意味を考えることは、自分自身に引きつけてその問題を考えるということだ。それを生かすか殺すかは我々一人一人の「自分自身と向き合う強さ」―それは村上春樹の言う「タフさ」に近いものかもしれない―にかかっている。
posted by Tommy at 23:59| Comment(0) | ウェブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月23日

【ニュース】殺人事件の過剰報道がもたらす影響

■警察ネタ過剰がもたらすもの

元厚生事務次官殺害の容疑者が逮捕された。

★「次官を殺した」男が警視庁に出頭、身柄確保(asahi.com)

現報道から判断するにまた動機があいまいな殺人事件だったようだ。人はこのような理不尽な理由で絶対に殺されてはいけない。亡くなられた夫妻の無念を思うと本当にいたたまらない。

しかし、である。

★警察ネタの過剰(池田信夫blog)

「ここ数日、各社のトップニュースは元厚生事務次官殺害事件の関連で埋まっているが、もううんざりだ。(中略)海外から帰ってきて日本のテレビを見ると、いつも違和感を抱くのは、こういう警察ネタの扱いが異様に大きいことだ。」

この池田氏の「警察ネタの過剰」という意見には全く同感。

事件以来、例えば朝日新聞1面の見出しは、「刺し傷多数」とか「黒い車目撃情報」などまるで推理小説の展開を煽るようなものが続いた。

このような過剰報道は、社会心理学の用語で言う「培養効果」をもたらすだけだ。つまり、殺人事件のような、人々に恐怖を抱かせるような事件を過剰報道すると、読者や視聴者の社会不安をむやみに増大させる結果になるということだ。

社会不安が増大すればするほと、人々は必死に「セキュリテイ」を求めるようになる。以前もこのブログでも取り上げた「ゲーテッドコミュニティ」のように、自ら進んで監視された空間に住むようになるのだ。

その先に待っているのは「監視社会」というものが、いかに政府にとって好都合であるかは、もはや言うまでもない。

posted by Tommy at 23:59| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月22日

管理人のプロフィール

管理人のプロフィールページをまだ作っていなかったのでentryしておきます。

Seesaaブログには、はてダみたいな気の利いたプロフィールページがない。
だからこうして記事をentryして作成しないといけない…。


■当ブログについて

 脱サラ大学院生が、日々思ったこと、考えたことを綴るブログ。
 社会学関連の大学院に所属しているため、それ系の本の紹介や、
 気に入った映画や音楽の紹介、気になったニュースへのコメントなども書いていきます。

■管理人

 Tommy

■性別

 男

■プロフィール

 東京生まれ。大学卒業後、一般企業で営業職を経験、退職。
 都内の大学院に在籍中。

■趣味

 ・読書。趣味欄に読書と書いてもあまり意味はないが。
  ジャンルは社会科学関連、小説、ビジネス書など。
 
 ・音楽鑑賞。コテコテのポップスが好きだった。
  最近はやっとUKロックとか通好みの音楽の良さが分かるようになってきた。


ひとまず以上です。
今後必要に応じて補足していきます。

こんな私でよろしければ、これからもどうぞお越しくださいませ。


posted by Tommy at 22:47| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月21日

思春期最大の危機は中学生に訪れる−児童生徒の暴力最多

■児童生徒の暴力行為過去最多

きわめて社会学的な問題。

児童生徒の暴力最多、「ネットいじめ」21%増 文科省

「全国の学校が07年度に確認した児童生徒の暴力行為は5万2756件と前年度比で18%増え、小中高校のすべてで過去最多だったことが、文部科学省が20日付で発表した「問題行動調査」でわかった。感情をうまく抑制できずに急に暴力を振るうなど、学校現場が対応に苦しむケースが広がっているという。」(2008年11月21日asahi.com)

だが、記事にも書かれているが、「けがや診断書、警察への届けの有無に関係なく報告するよう求め」るなど、前回の調査よりも対象範囲が広げられているので、前回から急激に増加するのも無理はない。調査条件が異なるから単純に増えたか減ったかは何とも言えない状況だ。

それに全国の小学生から高校生が、年間で5万件の暴力って果たして大野だろうか?文科省の最新版学校基本調査によると、全国の小、中、高の生徒は約1400万人。仮に暴力行為5万件全てが別の生徒が行ったとして1400万人中の5万人…って、0.36%くらいじゃん!

暴力行為自体は良いことでも何でもないが、そのくらいの年であれば0.36%の生徒が暴力をふるうのも無理ないのではないか。

今回の調査でむしろ注目したいのは、小・中・高の内訳だ。小学生が約5,000件、高校生が約10,000件に対し、中学生は36,000件んでダントツだ。生徒間暴力、対教師暴力、対人暴力、器物破損すべてにおいて小学生、高校生を上回っている。

■中学生は思春期最大の危機の時期

こういう結果を見ると、思春期最大の危機は中学生なのだなということが良く分かる。小学生は既に物心がついて、大人の世界もかなり理解しているが、世界との深刻な衝突はまだ生じていない。高校生になるとある程度現実とはこんなもんだという認識が出来るようになってきて、精神も安定してくる。(あくまで実感)

しかし、その狭間に位置する中学生には、世界との苦難の衝突が待っている。自己と他者という意識に目覚め始め、アイデンティティーが深刻な問題になってくる。自分の中にありとあらゆる欲求が爆発しそうなくらいあふれてくるのに、現実はそれに応えてくれない。

そういう思春期の危機ともいえる事態が最も顕著に表れるのが中学生なのだ。そりゃあ、窓ガラスの1枚くらい割りたくもなるだろう。(もちろん決して良いことではないのだが。)

対策のカギとなるのはやはり、家族と学校だ。生徒を殴ったり、窓ガラスを割ったりする子供を、道徳的に批難するのではなく、なぜその子はそういう行為をするに至ったのかを、ひとりひとりと向き合いながら考えていく必要があるのだと思う。
posted by Tommy at 20:42| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月20日

ブログリテラシーについて

■私のブログ原体験

忘れないうちに書いておこうと思って筆を取る。(というかキーボードに手を置く)私が初めてブログを始めた時の経験を。

まずは、インターネットで初めてブログというものを閲覧し始めた時について。それまでの私はブログ=個人的な日記をWEB上で公開すること、という固定観念しかなくて、ずいぶん物好きな人たちがたくさんいるんだなあくらいにしか考えてなかった。

しかし、本や雑誌を見ている内に、ブログとは単なる日記だけじゃなく、ネット上の最新情報や、ライフハック、書評、社会時評など多様な情報を発信するメディアだと知った。

これは面白そうだと見始めたのが今年の夏頃(まだ最近だ…)無論、それ以前もネットサーフィンの最中にさらっと閲覧したこともあった。しかし、情報収集として意識的にブログを閲覧し始めたのはその頃だったのだ。

当時は会社員だったこともあって、「404 Blog Not Found」「マインドマップ的読書感想文」「俺と100冊の成功本」など、いわゆるビジネス書関連のブログから読み始めてみた。

その時の記憶として今でも残っているのが、「独特のインターフェースによる読みにくさ」だ。

まず日付順に縦に並んでいる膨大な量の記事につまづいた。ホームページは各画面がカテゴリ別などに整理されていて、メニュー画面から目的の画面に飛んで閲覧することが多い。しかしブログは初めから記事が何の工夫もなく日付順に羅列されていて、何だか下品に感じてしまったのだ。

次に「追記機能」というものが分かりづらかった。書籍の画像と文章が2〜3行並んでいるだけで、「ブログとはこんなに短く書くものなのか」と思っていたら、ふと記事欄に「続きを読む」というリンクを見つけてクリックしてみると全ての内容が出てきた。

記事欄の端に並ぶ「B」とか書かれた謎のボタンと3ケタの赤い数字(はてなブックマークだったのね…)、サイドバーに大量に貼られている種々雑多なバナーなども分かりづらかった。

要するに、ブログというものは、ホームページとは全く異なった構造とインターフェースで書かれており、閲覧するために固有のリテラシーが必要なメディアなのだ。ブログを閲覧し始めた当初は、私にこの「ブログリテラシー」とでも言うべきものが欠落していたために、思うように閲覧できないもどかしさやストレスを感じていたのだ。

■ブログリテラシーを考案する必要

ブログの「読み」については大いに戸惑った私も、「書き」については割とスムーズにクリアすることができた。私が利用したのはSeesaaブログだが、タイトルと説明と適当な文章を書いて保存すれば即座にあの私を苦しめたインターフェースのブログが出来上がった。

「読み」のインターフェースの分かりにくさとは裏腹に、「書き」は恐ろしいほどハードルが低いのもまたブログの特徴に感じた。このハードルの低さゆえに生じる問題も多い。記事の内容が元でコメント欄が炎上して閉鎖に追い込まれたり、不正な内容の記事がアップされたり。まあその程度の問題であれば2ちゃんねるの頃からあったわけだが、ブログの場合はある程度まとまった内容の記事を個人が書いている。そのため「芸能人ブログ同士のケンカ」などブログ特有の問題も生じてくる。

このようにブログは、ホームページと比べて、作成のハードルがあまりにも低いために、今や小学生から高齢者まで誰でもやっている。「おいおいそんなことまで書いていいのかよ!」と突っ込みたくなる内容を皆平気で書いている。特に著作権に関係してくる問題が顕著だ。ライブや講演会など、今日あらゆるパブリックなイベントは、ブログやYouTube、ニコ動などで無料で事後体験することが可能となった。

あまり好きな言葉ではないが、もともと「メディアリテラシー」という言葉は、メディアを批判的に利用する能力だけでなく、メディアを適切に利用して表現する能力も包含するものである。今日ブログほど独自のメディアリテラシー教育が必要とされているメディアは他にないのではないか。いずれ「学校裏ブログ」や「自殺ブログ」などが流行してくる前に、早期の対策が必要だと思う。


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2008年11月19日

【新刊ニュース】ハーバード大教授による要注目の若者論―『失われた場を探して ロストジェネレーションの社会学』

ニート論などでお馴染みの玄田有史さんのブログでとても興味深い本が紹介されていた。

12月3日夜7時青山で会いましょう。(ゲンダラヂオ)

『失われた場を探して ロストジェネレーションの社会学』
 メアリー・C・ブリントン 著
 池村千秋 訳
 玄田有史 解説
 発売日:2008.11.28

ハーヴァード大の著者が、日本で出版することを前提に書き下ろしたという珍しい形式の若者論。

以下NTT出版のホームページより引用。

「本書は、ハーヴァード大学の社会学者が、独自の聞き取り調査と緻密なデータ分析に基づき、ロストジェネレーションを生み出した原因を1990年代の経済・社会の状況にさかのぼって読み解く画期的な書。」NTT出版紹介記事より)

日本の若者論は、つい最近も『お前が若者を語るな!』などが物議を醸し出すなど、割とデリケートな問題だ。

『お前が若者を語るな!』では、日本の数ある若者論が実証性のない印象論だと批判されていたが、本書は緻密なデータ分析に基づく実証研究のようなので、その心配もないだろう。

注目すべきは、やはりハーヴァード大の社会学者である著者が、外国人という立場で日本の若者を語るという斬新さにある。

日本人の年配の学者が若者を語ると自らも同じ社会に属しているためどうしても「今どきの若者は」的な論調になってしまう。しかし、外国人の著者であれば同じ社会に属していない分、より客観的かつ独自性の高い知見を与えてくれそうだ。

発売されたら即購入したいと思う。
posted by Tommy at 22:09| Comment(0) | 本(社会学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月18日

ブログタイトル変更について

諸般の事情によりブログタイトルを変更することにした。

「メディア論的生活」は今まで通り。副題に「song of media」と入れた。

メディア論的生活、それは周囲のあらゆるメディアが歌う歌に耳をすませながら生活すること。

そんな意味合いを持たせた。

それとこれもまた諸事情により管理人のハンドルネームも「Tommy」に変更させていただいた。

リンクを貼っていただいた方、記事に取り上げたりしていただいた方、には本当に申し訳ない。

どうぞ今後とも当ブログを宜しくお願いします。
posted by Tommy at 19:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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