2009年02月20日

万歩計は最強のダイエットツールだ!

私は外出するときはいつも必ず万歩計を持つようにしている。

しまう所はいつも同じでジーンズの右ポケットだ。たまに家に忘れたりすると、携帯電話を忘れたときのように困ってしまう。場合によっては家に取りに戻ることもあるくらい。それほど万歩計は私にとって欠かすことができないツールなのだ。

万歩計を持ち歩いている時は、ふと思い出したときにポケットから取り出して歩数を確認するようにしている。そして予想よりも多く歩いていたときなどは、思わずニヤリとしてしまうのだ。

それにしても、そもそもなぜ私は万歩計を持ち歩くのか?

それは「万歩計ほど、日常の中で意識的に歩く時間を増やすモチベーションを高めてくれるメディアは他に存在しない」からだ。

万歩計は言うまでもなく自分が歩いた歩数を可視化してくれるメディアだ。万歩計がないと歩行は、日常生活の中で、最も原始的でかつ時間のかかる移動手段となる。しかし、万歩計があると非効率的な移動手段である歩行を、歩数という尺度で可視化し、運動量を明確に示してくれるようになる。当たり前のことだが、極端に至らなければ、運動量が増えることは健康維持の最善の方法だ。

万歩計の歩数が溜まっていくことは、それだけ健康に近づくバロメーターとなる。いわば、万歩計とは、歩行という地味で疲れる移動手段を重ねることで、健康を買うための運動を貯めていく貯金箱のようなメディアなのだ。

万歩計は、歩行の意味を変えるすごい力を持っている。
「おっさんくさい」などと言わず、外出のお供にぜひ使用してみてはどうだろうか。
ちなみに私が使用している万歩計は下記のオムロン製。消費カロリーや移動距離が確認できる他、7日前までの歩数を記録しておくこともできる。

オムロン ヘルスカウンタ Walking style HJ-113 ブラック
B0001Z8VKA



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2009年02月18日

社会学だけが捉えられるリアリティー 内田隆三『社会学を学ぶ』

社会学を学ぶ (ちくま新書)
内田 隆三
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2005年4月1日初版。入門書だと思って読むと面食らう読み応えのある内容。著者自身の研究遍歴を通して語られる、理論社会学史とでも呼べば、それほど的外れではないだろう。そこで追求されるのは「社会とは何か」という本質的な問いである。専門用語も頻出し、決して読みやすい本ではないが、一読すれば社会学がいったい何を解明しようとしているのかを、実感を伴って理解することができるだろう。

「社会」とはまことに曖昧な、捉えどころのない言葉である。小学校の教科書などには、よく東京駅前の横断歩道を渡る人たちの写真を載せて、「私たちの社会」と書いていたりする。しかし、いうまでもなく「社会」は駅前のサラリーマン達だけを指すわけではない。社会とは実体として存在するものではなく、人と人との関係の中から生起するある種の「現象」である。そして我々は自分たちで生み出した「現象」の中に同時に含まれてもいるのである。

本書の第一章で紹介されるデュルケムの『自殺論』は社会学の古典中の古典である。私も大学1年生の時に中公文庫版で読んだ。自殺という極めて個人的な行為ですら、社会によって規定されているということを実証的に示した衝撃的な本だ。著者はデュルケムとの出会いを通して、次のような考えに至ることになる。

「私のもっとも根源的な投企であるはずの自殺という行為――それは主体的な意志がなければ不可能に見える行為である。主体性の極地であるような行為の、まさにその核心において、社会のありようという見えない力がはたらいており、結果として、また全体として、一定の規則性が貫いているのだとすれば、それは怖ろしいことに思えた。(中略)この力の構造を把握し、一定の方法で操作し、制御することが可能だとしたら、社会学は魅力的だが、何か怖ろしい学問だというべきだろう」(P.47)

この認識は、私が学生時代に抱いたものとほぼ完全に重なる。学生時代に自分のアイデンティティーについて真剣に悩むことは誰もが経験することだろう。特異だと思っていた自分が、実は極めて平凡な存在でしかなかったことを知ったときのあの失望感。私はそのような失望を味わった時に、つまり自分のような人間が世の中に大量にいると知ったときに、一人ではないんだという安心感よりもむしろ、自分が何か大きな目に見えない力によって拘束されているような恐怖を感じたのだ。

社会的動物である人間が社会から自由になることは論理的に不可能だ。しかし、何も知らずにただ社会に拘束されて生きるのと、社会が個人の生を規定する構造を把握し、その手の内を知った上で生きるのとでは、天と地の差がある。この時私が達した結論は「人間は知ることでしか自由になれない」という当たり前の事実だった。どちらの生き方が倫理的に良いとは一概には言い切れない。しかし私は、知ること、そして探求し続けること、そういうスタンスの方が「好き」だったからそれ選んだ、それだけのことなのだ。

本書は、著者や私と同じような悩みを持ったことのある人にはぜひ紐解いていただきたい良書だ。そこには、哲学にも、心理学にも、生物学にも、脳科学にも還元できない、社会学だけが光を当てることができるリアリティーが存在しているのである。

posted by Tommy at 11:09| Comment(1) | 本(社会学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月16日

村上春樹氏がエルサレム文学賞を受賞

勇気ある決断だったと思う。

村上春樹氏がイスラエルの文学賞である「エルサレム文学賞」の授賞式に出席した。パレスチナ問題を扱うNGOから受賞辞退を求める声明も発表されていて、村上氏の行動には注目が集まっていた。

「受賞しない」という選択ももちろんあったのだろう。
しかし、村上氏は「受賞してイスラエルの地に赴く」という選択を選んだ。

作家・村上春樹さんが「エルサレム文学賞」を受賞
「私は遠くで見てるより、ここに来ることに決めた。自分の目で見ることを選んだ。何も話さないよりも、皆さんと話したいと思った」
(広島ホームテレビ 02月16日07時54分)

上記のサイトで短い動画だが、スピーチをする村上氏の姿を見ることができる。動画の中の村上氏の表情は終始一貫して硬い。いささか大げさな身振りを交えながら、幾分神経質にも見える口調で、英語のスピーチをする村上氏は、現在のパレスチナを巡る事態の深刻さを踏まえつつ、内にイスラエルに対する激しい怒りを秘めているようにも見える。

村上春樹さんに「エルサレム賞」=スピーチでガザ侵攻を批判
「村上さんは例え話として、『高い壁』とそれにぶつかって割れる『卵』があり、いつも自分は『卵』の側に付くと言及。その上で、『爆弾犯や戦車、ロケット弾、白リン弾が高い壁で、卵は被害を受ける人々だ』と述べ、名指しは避けつつも、イスラエル軍やパレスチナ武装組織を非難した」
(時事ドットコム 02月16日06時47分)

村上氏が授賞を受けたことに関しては今後少なからず賛否の声が上がってくることだろう。その中で、私自信は今回の村上氏の行動を勇気ある決断として支持したい。村上氏は、地下鉄サリン事件を扱った『アンダーグラウンド』以降、「社会へのコミットメント」をテーマに作品を書き続けている。今回のエルサレム賞受賞は、事件から10年以上経った今でもなお、村上氏が「社会へのコミットメント」というスタンスを堅持しているということを、全世界に向けて証明したのだ。

村上氏は近年、「悪」というテーマも追求したいと語っている。今年初夏に刊行が予定されている氏の最新長編小説で「悪」が扱われることは間違いない。それがまたヘブライ語に翻訳されたあかつきに、イスラエルの人々の心にどのような影響を与えるのだろうか。絵空事かもしれないが、その1冊が、平和への小さな芽となってくれることを願わずにはいられない。
posted by Tommy at 10:38| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月11日

近所のカフェで見た効率の悪い勉強法

今日も空いた時間に近所のカフェで本を読んでいると、受験生と思しき何組かの客がコーヒーをすすりながら勉強に勤しんでいた。そういえば今月は2月、大学受験の真っ最中の時期だ。私も大学受験は1年浪人して猛勉強した経験あるので、様々な思いが蘇ってくる。気分転換として行った予備校の夏期講習以外は宅浪だったので、勉強計画も全て自分で立ててノートに書いて管理した。友人には悪いが携帯の電源は切って文字通り缶詰になって1日10時間以上勉強し続けた。あまりにも根を詰めすぎたので、受験直前期になると、若干精神が病み始めていたのだが、何とか志望大学には合格することができた。

そんな自分の受験時代を思い出しながらカフェで勉強をしている受験生たちを見ていると、ちょっと効率的とはいえないような勉強法をしている人たちが何人かいた。一番いけないのは友達と一緒に勉強しているパターン。私は勉強とは基本一人で行う孤独な作業だと思っているので、二人以上で勉強する人の気が知れない。私が今日見た二人組の少年は日本史の勉強をしているようだったが、雑談ばかりで一向に勉強が捗っているようには見えなかった。家庭教師とかならば、勉強の内容について質問できるのだからいくらかメリットもあるのだろうが、自分と同じレベルの友人と一緒に勉強することで得られるメリットなんてあるのだろうか?家に友達を呼んでも一緒に何かして遊ぶのではなく、ただ同じ部屋で黙々と携帯ゲームをやったりする今時の子供の様に、単に近くに友達が「いるだけ」でよいのだろうか?

もう一つ非効率的だと感じたのが、iPodを聞きながら勉強しているパターン。クラシックとか歌詞のない音楽であれば勉強には支障はないというが、今日私の隣で勉強していた受験生は、イヤホンから音が洩れまくっていて、誰が聞いてもEXILEだった。そんな曲聞きながら勉強したって、効率なんて上がるわけがない。しかも、その受験生は、市販の単語集の単語と意味を丁寧にノートに書き写していた。いったい何のために?単語を覚えるのであれば、単語集の中で覚えればいいのに、なぜまたノートに順番通り綺麗にコピーしていく必要があるのだろう。今の単語集には答えを隠せる赤シートが付いているものがほとんどなのだから、紙に書き写している暇があったら、何度もシートを使って意味やスペルを想起する練習をした方が遥かに効果的なのに。

両者に共通するのは、「効果性」を無視した勉強をしている点だ。友人と一緒に雑談しながらだろうが、とりあえず参考書は開いている。iPodを聞きながらだろうが、とりあえず単語を紙に書き写している。いわば勉強しているという「モーション」だけで安心してしまっているのだ。「モーション」だけではいつまで経っても勉強の成果はでない。勉強というものは、自分の知性を少しでも高めようとするプロセスなのだから、勉強後に自分がどういう状態になっていたいのか、つまり勉強によって得られる「効果」を明確に意識して実行していく必要があるのだ。


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2009年02月10日

私の体だってメディアなんです。

思春期に誰しも経験する鏡の中の自分の姿への失望。背が低い、肩幅が狭い、胸が小さい、二重じゃない、唇が厚い、鼻が大きいなど、他人が見てもたいして気にならない些細な部分をとかく気にしてしまう。テレビや雑誌に出ている芸能人は完璧な顔立ちと体型をしているのに、何で俺は/私はこういう外見なんだろう・・・。芸能人とまでいかなくても、身近にもルックスのいい人はたくさんいる。彼は/彼女は容姿に恵まれていて羨ましい。きっと人生も楽しいに違いない・・・。

メディアを「人と世界を媒介するもの」と定義した場合、人間にとって最も決定的なメディアとは、他でもない「身体」であろう。人間は「身体」というメディアを媒介して、世界を捉える。人間に限らず、全生物は己の身体をメディアとしてそれぞれ「固有の世界」を知覚している。例えば、人間を遥かに越える嗅覚を持つ犬が知覚している世界や、複眼や触覚を持つ昆虫が知覚している世界が、人間とは異なるものであるということは想像に難くない。

そう考えると、人間同士の中でも「身体」の差異によって、世界は違った色彩を帯びてくるのは当然といえる。これは単に、背が高い人間の方が背が低い人間より遠くまで見渡せるとか、太っている人の方が痩せている人より動作が重くなるというような、物理的に知覚可能な世界の差異に留まらない。人間における「身体」の差異は、物理的世界というよりも、社会的世界に決定的な影響を与える。男の体か、女の体かなんてまさにそうだし、顔立ちや体型、更に言えば肌や目の色の違いが、当人の社会的世界を決定付けてしまうのだ。

世の中には不幸にも自分の身体をどうしても受け入れられない人が少なからずいる。そういう人々は、鏡に写る己の姿に絶望し、耐え難いコンプレックスを抱く。こんな体に生んだ親を許せないと、自分の両親を恨んだりもする。このような歪んだ、しかし切実な問題を抱えてしまった場合に解決する方法は主に2つある。

1つは身体自体を変えてしまうこと。美容整形などはその最たる例だ。昔テレビ番組で、容姿にコンプレックスを抱いて暗い人生を送っている女性が、美容整形を通して外見を劇的に改造して、前向きな人生を歩む過程を楽しむものがあった。親が生んだ体を改造するなんてという意見もあるのだろうが、私自身はそれで本人が一度しかない人生をいくらか前向きに明るく生きられるのならそれでいいのではないかと思う。しかし、身体改造というものが、身体を「メディア」として対象化して意のままに操るという、人間特有の極めて万能的な世界観の顕著な例であることは確かだ。黒人であることにコンプレックスを抱いて漂白剤などで無理やり肌を白くしたアメリカのミュージシャンや、シークレットブーツなどでブラウン管に写る自分の身長を少しでも高くしようと必死な我が国の芸能人たちも、本質的にどれも変わらないのかもしれない。

もう1つの方法は、認識を変えること。認識を変えるとはつまり「捉え方」を変えるということだ。よくコンプレックスをバネにすると言うが、自分が欠点だと思い込んでいる身体に別の「意味づけ」を行うのだ。例えば、太っていると包容力があるとか、背が低いと愛嬌が出てくるとか、二重じゃないのだったら和風美人を目指すとか、欠点と思い込んでいる要素を生かす方法などいくらでもある。あるいは、身体的に恵まれていない場合は頭脳を磨いて活躍しようとか、歴史上の偉大な発明家には、そのような身体的コンプレックスがモチベーションになっている例も少なくない。この「捉え方」を変えると世界が変わるという真理は、古来から宗教や文化、最近では自己啓発などの根本的なテーマでもある。

いずれにせよ、身体というものは人間にとって(いや全ての生物にとって)最も重要なメディアであることは自明の理で、それといかに付き合っていくかに、各個人の人間性が現れてくるのではないかと思う。

posted by Tommy at 10:23| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月09日

大学生は就職する前から搾取されている。

昨年末頃から企業の「内定取り消し」が問題になっている。例年大学生の就職活動は早期化しているといわれており、一般企業への就職を考えている学生は4年間しかない大学生活の内、1年〜2年(場合によってはそれ以上)を就活に費やさなければいけない。就職情報サイトに登録し、マニュアル本を熟読し、筆記試験対策をし、リクルートスーツを着込み、就職セミナーに参加し、OB・OG訪問をし、エントリーシートを書き、何度も面接を受け、やっとの思いで内定を勝ち取って胸を撫で下ろしたのも束の間、企業の都合で一方的に取り消しを通告されるのだ。死ぬ気で受験勉強して合格した大学から合格を取り消されるのより、もっとひどい。学生が失意のどん底に叩き落されるのも無理はない。

もともと、今回の様な世界的な経済不況でなくても、「就活」は学生を振り回す悪しき慣習だ。受験では客観的な基準のある「学力試験」で選抜でされていたのに対し、「就活」では客観的な基準のない極めて主観性の高い要素で選抜される。自己PR、志望動機、熱意、コミュニケーション力、問題解決力など、客観的な判断基準を設けることが困難な多様な要素で選抜される。これらの要素は「学力」と違い、本人のアイデンティティーと密接に関わっているということもあり、面接で落とされた時の学生のショックは計り知れない。面接官から全人格を否定されたような気持ちになり、自信を失ってしまうこともしばしばある。

大学生は言わば「就職する前から搾取されている」のである。

「就活」のこの悪しき状況を赤裸々に暴露したのが、石渡嶺司・大沢仁『就活のバカヤロー』だ。
就活のバカヤロー (光文社新書)
就活のバカヤロー (光文社新書)

本書は、「就活」を巡る「学生」「大学」「企業」「就職情報会社」、4者それぞれの内幕を暴き、「就活」というものがいかに「皆が踊らされている悲しい茶番劇」であるかを告発している。中でも「就職情報会社」の項は、類書にはあまり見られない内容で、リクルートや毎日コミュニケーションズの様な企業が「就活」を背後で牛耳り、「マッチポンプ式」に利益を上げているカラクリが暴露されている。しかし、著者はそのような就職情報会社でさえ、企業の採用市場に流されざるを得ない弱い立場でもあり、「踊らされる」状況であることに変わりはないという。

「皆が踊らされている茶番劇」は、世界的な不況のせいで「皆が嘆き苦しむ悲劇」に変わってしまったのではないか。企業にも就職情報会社にも頼ることができないのだから、頼みの綱は「国」なのにその国も周知の通り甚だ心もとない。このような苦難の時期にこそ、本当に頼れるのは家族、親族、地域のような「ゲマインシャフト」なのかもしれない。かつて就職情報会社が隆盛する前は、就職経路のトップは「縁故」が占めていた。親の仕事を継ぐとか、親戚が勤めている会社に入るとか、共同体に頼った「就活」が当たり前だったのだ。共同体が崩壊し個人化が進行しきってしまっている今、共同体に頼るのも難しいのかもしれない。しかし、苦難の時期にこそ、離れていた家族、親族、友人などと再度手を取り合い、共に乗り越えていくことが必要なのではないか。

posted by Tommy at 09:50| Comment(0) | 本(社会学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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