2009年06月26日

ネトゲ廃人について考える。

<ネトゲ廃人>【1】バーチャルに生き、現実世界で生きられない人、増える

「寝食も忘れてインターネットのゲームにのめりこみ、学校や職場に行けなくなる人たちが現れ始めた。現実で生きることを放棄した彼らは、「ネトゲ廃人」と呼ばれる。廃人がひしめくバーチャルな世界で、何が起きているのか。」(毎日jp)

RPGはそれなりに好きな私だが、オンラインでやることにはなぜか全く魅力を感じないので、ネットゲームというものは今まで一度もプレイしたことがない。私の場合、RPGの世界の中でくらい一人にしてくれという思いが強い。だから、人とのコミュニケーションが発生するオンラインゲームを煩わしく感じるのだろう。

しかし、ネットゲームが好きな人たちは、ゲームの中とはいえコミュニケーションを求めているように思える。RPGは絶対一人がいいという私のようなタイプに比べれば、よほど社交的なのではないか。なんて考えていたのだが、事態はそう単純ではないようだ。ここでは、ネットゲームにハマる人たちを「オンライン型」、スタンドアロンにこだわる人たちを「オフライン型」と分けて考察してみよう。

「オンライン型」であれ、「オフライン型」であれ、RPGが好きな人たちは多かれ少なかれ「現実逃避」の欲求を持っている。仕事がうまくいかないサラリーマンが、現実を忘れるために深夜遅くまでドラクエをやる様などをイメージすると分かりやすい。しかし、両者は同じ現実逃避でもその質はかなり異なる。

「オフライン型」は日常生活において「対面的コミュニケーション」が過多、あるいはある程度充足されており、RPGの世界ではそのような煩わしい世界から逃れたいと考えている。それに対し、「オンライン型」は日常生活において、「対面的コミュニケーション」が皆無、あるいは不足している状態で、そのような孤独な現実から逃れようとしているのだ。あるいは別の言い方をすれば、前者は「存在の重さ」からの逃避、後者は「存在の軽さ」からの逃避を求めているとも言えるかもしれない。

両者とも度を越してしまうと深刻な問題になるが、「オンライン型」の方がより危険なように思える。というのも、「オンライン型」は「人とのコミュニケーション」という人間本来に備わっていると思われる欲求がある程度満たされてしまうからである。そのような欲求が満たされてしまうと、人はオンラインゲーム内だけで自己完結してしまい、世界を閉じてしまうのである。しかし、言うまでもなく、多くのメディア論が指摘しているように、ネット空間のコミュニケーションとは現実世界のコミュニケーションは質的に異なる。その質的な違いがいったいプレイヤーにどのような影響を与えるのだろうか…。

また、引用記事の連載3では、オンラインゲーム会社側が、プレイヤーの中毒化の責任を取っていない問題が挙げられている。ゲーム中毒の原因をプレイヤーだけでなく、そのような中毒を生み出すようにゲームを設計しているメーカーにまで求めるというのは、今までにない傾向なのではないか。

オンラインゲームは、プレイヤーのコミュニケーション欲求をある程度充足させ、また次々と強い敵キャラや新しいステージを出現させることで、エンドレスにプレイヤーを仮想世界に動員しようと企てる。オンラインゲームはこのような深刻な問題性を孕んだ現代社会特有のメディアだ。それゆえに、今後学問的にももっと研究される必要があるだろう。
posted by Tommy at 00:02| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月24日

【book】『君は永遠にそいつらより若い』

君は永遠にそいつらより若い (ちくま文庫)
津村 記久子
4480426124


第140回芥川賞を受賞した津村記久子のデビュー作。公務員試験に受かり就職も決まった大学生ホリガイ(22歳処女)の友人たちとのだらだらした日常と、そこに潜む「悪意」を描く。

一読した印象は、「女性版保坂和志」。だらだらした日常をだらだら書いていき、その中のふとした瞬間に人間の深淵を見出すというスタイルは保坂の独壇場だが、本書もいい線行っているのではないか。しかし、保坂の深淵と津村の深淵には明確な方向性の違いがある。保坂和志の深淵が「世界とは」「人間とは」というような哲学的なものであるのに対し、津村の深淵はもっと現実的なものである。例えば、男友達の河北とだらだら飲んでいる時に、河北が自傷癖のある彼女との愛を自己陶酔的に語った。それに不快感を感じたホリガイは『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』の「サリー」という「腕とか足もつぎはぎでつながって」るキャラクターの話を出してひやかす。腹を立てた河北はホリガイにグラスの酒をかける。

「『自分になにも問題がないからって、語れる奴を嫉むな』
 両サイドの客の動きが止まった。店員が見ていたらかわいそうだな、と咄嗟に思ったけれども、さいわい誰も気付かなかったようだ。あるいは観ていて見なかったふりをしただけか。
 語るための痛みじゃないか、それも他人の。
 そう言い返してやりたかった」(P.68)


処女のホリガイには愛という「問題」がない。そのことに少なからずコンプレックスを抱いているであろうホリガイにとって、河北の陶酔的な恋愛話は不愉快極まりないものだったのだろう。あるいは、恋人の自傷を「話のネタ」にする不謹慎さにも腹を立てたのかもしれない。河北の配慮が足りなかったのはもちろん、ホリガイにも配慮が不足していた。両者ともに「悪意」を持っていた。

保坂がある種の形而上的な深淵を描くのに対して、津村は「悪意」「暴力」「哀しみ」などもっと現実的な人間の深淵を描く。私は思想が好きなので、どちらかといえば形而上的な深淵の方が面白みを感じるので、津村には少し物足りなさを感じるのだが、それでもこのような惰性的な日常の中の一瞬の裂け目を描く力は素晴らしいと思う。

少しネタばれになるが、読み進めていくとホリガイが実は極めて「倫理的」な人間であることが明らかになる。ホリガイは「ある事件」をきっかけに、児童福祉司になることを決める。そのある事件とは、実はホリガイ自身に起きたことではなくテレビで見た子供の誘拐事件なのだ。注意深く読んで見ると、自分の人生には「何もない」ホリガイが、実はメディアの情報から決定的な影響を受けて人生を選択しようとしているという、メディア論的な読みもできなくはない。

ホリガイにとってメディアの世界が重要な位置を占めていることは物語の随所に現れている。その中でも冒頭の「グラビアの切り抜きの世界」は注目に値する。ホリガイは女性アイドルの切り抜きを枕もとの襖に貼りつけるレズビアン的(こういう言葉を使うと途端に陳腐になるが)な趣味を持っている。

 「計算され尽くした微笑を浮かべながら、無防備にからだをさらしている彼女たちをみていると、なんだかぼんやりと、心を撫でられたような気分になるのだった。これをとりまく世界はとてもちゃんとしている、整然としている、と強く思っていた。女の子たちとそれを売る人たちとそれをみる人たちの簡潔な相関図があり、それは、かれらの間でどんな感情の駆け引きがあるにしろ、とてもゆるぎないもののようにわたしには思えていた。現実はそんなものではなくもっと流動的で、頭の硬いわたしにはとても疲れるものだということを、わたし自身がどこかで拒みたい気持ちが、そういった行動の根拠にはあったのかもしれない」(P.13〜14)

ホリガイはグラビアというメディアの世界に、現実にはない「ゆるぎないもの」を見出している。しかし、そのホリガイが流動的で、何が起こるか分からない、悪意に満ちた現実を見るのもまたテレビというメディアであった。人間の世界観の形成や人生選択といった領域にまでメディアの媒介が介入してきているということ。このことは、映画や音楽やテレビゲームが大好きなホリガイと同じように、「メディア人間」である我々にとっては当然のことなのかもしれない。

posted by Tommy at 23:22| Comment(0) | 本(文学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月23日

ねじは巻かれた。

村上春樹の最新作『1Q84』が予想通りとてつもない売れ行きを示している。イスラエル賞受賞時のスピーチが、当時の中川財務相の泥酔会見という最高の「ひきたて」もあり、世界に誇れるカッコいい日本人として注目された記憶もさめやらぬ中の、満を持しての新作。売れないわけがない。

1Q84 BOOK 1
村上春樹
4103534222
1Q84 BOOK 2
村上春樹


そんな村上春樹の1つ前の長編といえば『ねじ巻き鳥クロニクル』だが、私はその中で出てくる「ねじ巻き鳥」を勝手に「運命の歯車」と理解している。物語の要所要所で現れる「ねじ巻き鳥の“ぎいいい”という泣き声。この声と共に、主人公の運命の歯車は回り始める。そういう読み方をしたのだ。


ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)
村上 春樹
4101001413




そのような前置きは踏まえた上で、
人生における「ねじ巻き」について書きたい。



人生において、ねじは必ず巻かれるものなのだ。


どんなに辛くても

どんなに未来が真っ暗になっても

どんなに死にたくなっても


生き続けること。


耐える続けること。

待ち続けること。

抗い続けること。


生き続けてさえいれば、

いつか必ずねじは巻かれる


運命の歯車は回りだす

そうすれば人は動き出すことができる
posted by Tommy at 03:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月07日

【book】『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』本谷有希子

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)
本谷 有希子
4062757419


単行本は2005年7月刊。私にとって初めての本谷有希子作品。私は、読んだことのない著者の小説を初めて読む際は、かなり斜に構えて読むようにしている。つまり、その著者が本当に信頼するに足りるかどうか評価しながら読むのだ。今日、小説なんて吐いて捨てるほど出版されているのだし、小説以外にも物語の楽しさを経験できるメディアなんていくらでもあるのだから、つまらない小説に費やせる時間などないのだ。

その一方で、本当に信頼に足りる作家を見つけることが出来たら、今度はその作家の作品は全部読もうとする。気に入った作家の小説を読むことは、人生の中でも5本の指に入るくらいの至福なひとときだし、単に楽しめるだけではなく、人生に関する深い洞察や新しい世界観を得ることもできる。そして何より、「気に入る」ということは、自分の内面と何らかの関係を持っているということであり、そういう作家の作品を読むことは、自己省察にもつながるのだ。

では「信頼に足りる作家」とはどういう基準で判断すればよいのだろうか。私の場合は、小説はほとんど純文学しか読まないので、その際の判断基準は、桑原武夫の『文学入門』の影響が大きい。桑原は優れた文学の条件として次の3点を挙げている。

文学入門 改版 (岩波新書 青版 34)
桑原 武夫
4004140013


@新しいこと
A誠実であること
B明快であること

私の場合、Bは特に重視しないが、@とAはかなり重要な判断基準になっている。@は単純な意味で内容が新鮮であることはもちろん、もっと深い意味としては「芸術的」であることを意味する。芸術とは、常識的なものの見方に揺さぶりをかけて、新しい世界観を提供するものである。Aは、作者が心を魅かれた対象に対して誠実であることを意味する。作者が感動した対象に誠実に接していなければ、読者はそのような作者の感動を追体験できなくなってしまうのだ。


このような意味で、私は本作品で幸運にもまた1人「信頼に足りる作家」を見つけることができた。本作品は、地方の過疎化した村を舞台に、女優志望で自意識過剰な姉・澄伽(すみか)と、そんな姉を嘲笑と反抗の眼差しで見つめる妹・清深(きよみ)との、壮絶な家庭内暴力を、物語の1つの軸として展開する。

澄伽は自分に女優の才能があることを信じて疑わないのだが、家族や周囲の人間はそのような澄伽を冷ややかに見つめる。客観的に見ると才能がないのは明らかなのに、澄伽はそれを認めようとしない。それを認めてしまえば、澄伽は完全に自分というものを失ってしまうからだ。ここに現代人特有の、アイデンティティー・クライシスに苛まれる人間の、精神の危機が現れている。

俳優に限らず、タレント、ミュージシャン、マンガ家など、「芸能」を志す、いわゆる「夢追い人」は、客観的に見て才能があれば問題はないのだが(ちなみに私は才能は後天的に養成されるものだと考えているが)、そうでない場合は、なんと周囲から見て「もの悲しい」ものなのだろうか。早く目をさましなよと言ってやりたいのはやまやまなのだが、それでは当人の夢を壊すことになってしまう。しかし、まったく己を客観視せず、ひたすら夢を追うという、その「純粋さ」「無邪気さ」「盲目さ」に、悲しみを、苛立ちを感じずにはいられない。

本作品は、このような自意識過剰で己を客観視できない「イタい」夢追い人の「もの悲しさ」を巧みに描いている。物語の前半で、澄伽は、ある映画監督の小林哲生と文通を始め、その手紙の中で次のように書いている。ちなみに、澄伽は舞台女優でほそぼそと活動したことがあり、また哲生は撮影中の映画の主役の女性を探しているという流れ。

「そういえば、こないだまだ決まらないと言っていたヒロインの候補は思い付きましたか?折角の大きな企画なんだから、イメージ通りの女優さんが見つかるといいですね。演技力と色気のある美人……。うーん、確かに哲生さんの言う通り、顔がきれいで本当に演技が上手い女優って最近少ないと思います。参考になるかどうか分からないですけど、もし煮詰まってるなら、映画方面だけじゃなく舞台中心にやってる女優さんなども探してみたらどうですか?もしかして意外といい人がいるかもしれませんよ。みんなが見逃しているダイヤの原石が(笑)」(P.66)

イタタタタ……、という感じである。こういう人を見ていると本当に「悲しく」なってくる。しかしそれはあくまで第三者の場合であって、身内であればこの作品の妹・清深のように「苛立ち」の感情も芽生えてくるのだろう。しかし、清深の内面はそのような苛立ちに留まることなく異様な形に変容していってしまう。それは「愚かな姉の姿を多くの人間に知らしめたい」という欲望だ。(この欲望がきっかけで、澄伽の清深への壮絶な暴力が展開される。)この特殊な欲望にも「新鮮さ」を感じた。女優志望で自意識過剰な姉、そんな姉を客観視してその愚かさを人に知らしめたい妹。恐らく、この姉と妹を足して2で割ったのが作者自身なのではないか。(まあ純文学なのだから当たり前か)

ただこの2人の軸が秀逸だった分、物語の後半で、澄伽の腹違いの兄やその嫁の半生のエピソードが出てきたときは、少し唐突な感じがした。この2人のエピソードが入ることで、途端に安っぽい群像劇のような印象を少なからず受けてしまったのが惜しかった。しかし、作者は演劇の監督もやっているというのだからこういう群像劇的な書き方になるのも無理はないのかもしれない。しかしそれを差し引いても、主人公の姉妹の物語は、私に新鮮で追体験可能な人間観・世界観を与えてくれた。今後も本谷有希子の作品は折に触れて読んで行きたいと思う。
posted by Tommy at 22:26| Comment(0) | 本(文学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月04日

【Book】『難解な本を読む技術』+個人的な補足

難解な本を読む技術 (光文社新書)
高田明典
4334035086


昨今の経済不況の影響もあり、スキルアップのために読書をする人が増えている。書店に行くと夥しい数の「読書術」系の本が溢れており、どれもこれも「1日1冊戦略的に本を読め」とか「読んだ本はアウトプットせよ」とか似たようなことばかり書かれている。既にもう見ただけで満腹状態である。

そういう読書も嫌いではないのだが、私の場合は、大学院で思想系の本を結構たくさん読まないといけない身であり、思想系の本にはそういうプラグマティックな読書術は適用できない。そもそも、思想系の本というのは、自分に必要な情報を得るというよりも、その本を読むという経験を通して、自分自身で考えを深めたり、世界観を組み替えたりするものだからである。だから当然、思想書は思想書なりの読み方というものが必要になってくる。

『難解な本を読む技術』は、そのような思想書なりの読み方に的を絞った今までにありそうでなかった読書術系の本だ。こんな不況な世の中でのん気に難解な思想書をしこしこ読める人が(アカデミック関係者以外で)果たしてどの程度いるのか疑問だが、ともかく本書は、思想書を読む人にとっては何かしら得るものがあるのではないかと思う。

例えば、著者は「難解な」西洋系の思想書を2つのベクトルでタイプ分けしている。1つが「閉じている本と開いている本」という分け方で、「閉じている本」というのが著者が答えを明示している本、「開いている本」というのが著者が答えを明示しておらず読者に考えさせる本、だという。このタイプ分けを知っていると、難解な本を読んでいる時に往々出くわす「ああ、この作者はいったい何をいいたいんだよ?」というストレスがいくらか軽減されると思われる。

次に「登山型とハイキング型」という分け方で、「登山型」は著者の提示する概念をどんどん積み上げていくような本で、「ハイキング型」は積み上げ式ではなく著者がいろいろな概念や論理を提示していく本だという。このタイプを分け知っていると今度は、「ああ、この作者は次から次と話が飛んでつながりが分かんないよ!」というストレスが軽減されるだろう。

この他、難解な思想書ならではの「わからなさの理由」として次の4つが挙げ、それぞれの対処法が述べられている。

@その部分で使われている用語の理解が不十分
Aその部分で使われている論理関係の理解が不十分
Bその部分で扱われている問題の理解が不十分
C著者が言おうとしていることを図にする必要がある


この4つはまさに難解な本を読んでいる際によく出くわす障害ではあるのだが、少し物足りなさを感じた。難解な本を読んでいると、用語や論理関係の理解ではどうにもならないような、それこそ途方にくれるような事態にでくわすことがよくある。そういう経験から、私なりに2つほど補足してみようと思う。

・著者が使用している概念が頭の中で整理されていない

これは例えば、『資本論』などを読んでいると「使用価値」「価値」「相対的剰余価値」「一般的剰余価値」など、「価値」と名のつく概念だけでも無数に登場するのだが、このそれぞれをきちんと頭の中で整理しながらよんでいかないと、「登山型」の場合は必ずどこかで行き詰ってしまう。

こういう場合は、簡単に概念を整理した図を紙に描きながら読み進めるのが良い。本書では読書メモを丹念に取ることが推奨されているのだが、やはり時間がかかりすぎてしまうのがタマにキズだ。そのため、あくまで概念を整理することだけを念頭に置き、キーワードや矢印だけのシンプルなものでもいいので、描きながら読んでいくと、いくらか読みやすくなるはずだ。

・著者が説明していることを理解するための経験が不足している

難解な本を読んでいると、「言っていることは何となく分かるのだけど、いまいちピンとこない、ストンと落ちてこない」ということがよくある。この問題に関しては、「理解する」ということがどういうことかについて、もう少し突き詰めて考える必要がある。

「理解する」ということは、そこで語られていることの内容を把握するというだけでなく、語られていることの「重み」のようなものも把握することを意味するのである。例えば、自分が民族的な理由で迫害を受けた思想家の言っていることを真に理解するためには、その思想家が語っていることの「重み」つまり、言外に込められたその思想家の様々な思いも同時に捉える必要があるのだ。そのためには読者自身のそれまでの経験の動員がどうしても必要になってくる。

しかし、だからといって、迫害を受けたことがなければその思想家を理解できないのかといえばそうではなくて、自分の限られた経験を総動員して、誠実に想像力を働かせること。そのようなたゆまぬ努力を続けていけば、いくらか真の理解に近づくことはできるはずなのだ。(しかしこの場合の「真の理解」というのも曖昧なもので、当然ながら100%の理解など存在しない)

そんなこんなで、このように難解な思想書を読むのはまことに厄介というか、骨の折れる行為なのではあるが、辛くても我慢して読み進めて行った先に待っている、あの世界観が組み替えられる時の興奮は、他では決して味わえない、人生でも数少ない妙味であることだけは間違えない。
posted by Tommy at 00:34| Comment(2) | 本(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。