2008年11月13日

繰り返される日本語教育批判

■『日本語が亡びるとき』論争

先週からネット上で水村美苗氏の『日本語が亡びるとき』が話題になっている。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

まず梅田望夫氏がブログで本書を「全ての日本人が読むべき」と激賞。それに続いて小飼弾氏も同じく「今世紀最重要の一冊」と評価。その後のはてブのコメントに対する梅田氏の発言等も波紋を呼び、ネット上は「英語と日本語」論議で相変わらず賑わっている。

★[コラム] 水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。(My Life Between Silicon Valley and Japan)

★今世紀最重要の一冊 - 書評 - 日本語が亡びるとき(404 Blog Not Found)

(ちなみに私が上記のように「ネット上」と書いている時は、結局ははてブの人気・注目エントリを意味している。これはこれで偏った認識な気もするがそれは別に考える。)

■言語が世界認識を規定する

事態を観察していて思ったことは、言語というものは、その国の文化と切っても切れない関係にあるということだ。

言語と文化という観点でまず思い出すのが、スイスの言語学者ソシュールだ。

★フェルディナン・ド・ソシュール(Wikipedia)

ソシュールの言語学を恐ろしく単純化して言うと、次の2点で表すことができる。

 @言語は、予め分節された世界の対象と一対一で対応しているわけではなく、

 A言語が、世界の対象の切り取り方(分節の仕方)を決めているのである。

そして、このような言語は1つの言葉だけで世界の切り取り方を規定するのではなく、他の複数の言葉と相互に連関し「体系化」された上で、規定しているのである。

つまり、言語システムによって人間の世界認識は別様に変化するのである。

言語システムが世界の捉え方を規定する良い例が「色」だ。

★日本の色辞典(情報考学)

「赤、紫、青、緑、黄、茶、黒・白、金・銀の8グループに466色が分類されている。たとえば赤グループは、

【赤】 代赭色、茜色、緋、唐紅、今様色、一斤染、朱華、赤香色、赤朽葉、蘇芳色、黄櫨染、臙脂色、猩々色など104色。」


このような「色の体系」によって世界認識が変わる良い例が「虹」である。

虹の色数(Wikipedia)

「虹の色の数は現在の日本では一般的に七色(赤、橙、黄、緑、青、藍、紫)と言われるが、地域や民族・時代により大きく異なり、アメリカやフランスなどでは一般的には六色(赤、橙、黄、緑、青、紫)、もしくは藍を加えて7色といわれたりする。ドイツでは五色、スウェーデンでは(赤、黄、青、緑、桃、藍)である。」


言語は世界の切り取り方を規定する。言語体系の豊かさがそのまま、世界認識の豊かさにつながる。世界認識の豊かさは、豊穣な文化を育む。そして、豊穣な文化は、人間が豊かな人格を形成する土壌となる。

この言語体系をもっとも豊かにするものが「文学」なのである。誤解がないように言っておけば、「文学」以外にも言語体系を形成する言葉は数多く存在する。しかし、言語体系における文学の重要性は、先にも触れた「色」の例でも、疑いようがないものだと言える。

★日本の色辞典(情報考学)

「日本の伝統色は布や和紙に使われテクスチャの質感を伴ってこそ美しいのだ。写真ベースの色見本はこれだけで鑑賞に値する。伝統色は決してRGBのような単純な情報に還元できないことを思い知らされる。」

「古典文学や風雅な世界で使われる色名が、実際にはどんなに美しい色なのかがよくわかる。」


日本語の衰退は、世界を分節する言葉の貧困化を意味する。世界認識が貧困化すると、文化も衰退する。そして、文化の衰退は人格の退廃に帰結するのである。(人格は生まれ育った環境の文化によって形成される。)

■繰り返される日本語教育批判

このように、日本語の危機は、日本文化と日本人としての人格形成にも影響を及ぼす危機的状況なのだ。しかし、このような書き方をすると途端に「ナショナリズムだ」と言って批判される。

今回の『日本語が亡びるとき』でも、「日本語教育の強化はナショナリズムだ」といった批判が少なからずされている。

★[critics]水村美苗『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』を読む。(海難記)

「水村美苗の本は、梅田望夫氏が考えているのとはまったく違った意味でも、多くの人に読まれるべきである。そして議論が起こされるべきである。そして願わくば、このようなナショナリズムと悲観と無知と傲慢さ*6によって彩られた本は否定され、「近代文学」の達成をふまえつつ、現在の日本語で優れた小説を書いている作家たちの「孤独」こそが、広く知られるべきなのだ。」

私はそうは思わない。村上春樹や吉本ばななの文学は放っておいても若い人から年配まで幅広い年代が読む。(私も大好きだ)しかし、国語の教科書から漱石や芥川の文章が消えていく中で、むしろ「読みつがれるべき」と焦点を当てられるべきは「近代文学」なのではないだろうか。

★英語の圧倒的一人勝ちで、日本語圏には三流以下しか残らなくなるが、人々の生が輝ければそれでいい(分裂勘違い君劇場)

「文化のために個々のリアルな人間が存在するのではなく、個々のリアルな人間の生を豊かにするために文化が存在するのだ。個々の人間のリアルな生が輝くのなら、日本文化など亡んでもかまわない。」

一見「確かに」とうなずいてしまいそうな極論だが、これも誤り。主張の根拠が実存主義なのが空しい。

実存主義は四半世紀以上前に構造主義に否定されている。つまり、個々のリアルな人間の生など存在せず、文化の持つ構造が人間を規定しているのだ。言語教育なくして、個々のリアルな生など存在しない。(しかしその「構造」も、後にポスト構造主義で批判されるのだが。)

言語教育すら、日本語ではなく英語のみで良いというのであれば、それはアメリカ主導のグローバリズムとIT社会への盲従を意味する。この分裂氏は、漱石や芥川を否定し、マンキュー(ハーバード大教授)やプログラミングのフロー体験がもたらす快感を優位に挙げていて、まさにアメリカ至上主義の極論である。

このような日本語教育=ナショナリズムという批判は、日本語ブームが到来する度に繰り返されている。大岡晋の『日本語練習帳』しかり、齋藤孝の『声に出して読みたい日本語』しかり。

私も社会学を学ぶ端くれなので、軍国主義や民族主義に結びつくナショナリズムには断固として反対する。しかし、自国の言語教育を拡充することまでナショナリズムと言って批判する必要は果たしてあるのだろうか。日本語教育を批判することで、何か建設的な結果を生み出すことはできるのだろうか。

■自国語と文化を学ぶ意味

世界にはアジア地域に限らず、日本語と日本文化を真剣に学んでくれている人たちが少なからずいる。私の連れは海外旅行の添乗員をやっているのだが、先日トルコ旅行に行き、現地ガイドの日本語の流暢さに驚いたという。

そのトルコ人の現地ガイドは、英語以外に変わった言語を学びたいと日本語を学び始めた所、日本語の面白さに気づき、その後日本文化もどんどん学んでいったのだという。

そういう人たちは、自国の国語教育を強化するなどというとすぐにナショナリズムだと批判される日本の現状を見てどう思うのだろうか。

日本に興味を持ち、日本について学んでくれている外国の人たちに対して、われわれ日本人が日本語と日本文化を真剣に学んでおくことは、むしろひとつの責任なのではないだろうか。

日本語教育が叫ばれる度に、その火は、「日本」と聞けば何でも「ナショナリズム」と否定する、生産性のないリベラリストによって絶やされる。かくして、日本には日本語も外国語もできない中途半端な人間が増加していく。亡国の日はそう遠くないのかもしれない。
posted by Tommy at 12:43| Comment(0) | 本(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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