2008年11月24日

池田信夫氏の「『意味づけ』の病」エントリを批判する

■飛躍した批判

前回の記事で私は、元厚生事務次官夫妻殺害事件の過剰報道を批判する池田信夫氏の意見に賛同したが、今回のはちょっといただけないと思った。

★「意味づけ」の病(池田信夫blog)
「元厚生事務次官殺害事件は、やはり頭のおかしい男の場当たり的な殺人のようだ。ワイドショーでは朝から晩まで、いろんなコメンテーターがこの事件の「意味」を解説しているが、それは無駄である。「犬の仇討ち」というシュールな動機も、本当かどうかはわからない。むしろ統合失調症のような疾患を疑ったほうがいいだろう。」

「過剰報道」という「量」の問題を、「意味づけ」という「質」の問題まで飛躍させてしまっていて、一転して暴論になってしまっている。

entryでは、マスメディアの過剰な意味付けだけでなく、あろうことか、わざわざ秋葉原事件に関する社会学者らの論考集まで吊るしあげて「読んではいけない」と批判している。

犯罪に過剰な意味付けをすべきでないという池田氏は、今回の犯人を「統合失調症患者」で片づけてしまおうとしている。entryではオウム事件にも触れられていて、「集団的な精神病」という一言で片づけてしまっている。

これは明らかに暴論だ。

私に言わせれば、池田氏のように犯罪者を「精神異常者」の一言で処理してしまうのは、あまりに事態を短絡的に捉え過ぎているだけでなく、精神病患者へ「異常者」というレッテルを貼りつけ排除する事態にも繋がる危険な考えだ。

■社会的意味づけの意味

では逆に犯罪に対して意味付けを行うことは正しいことなのだろうか。

これに関しては非常に複雑かつ込み入ったテーマなので、とても1entryでは考えつくせないので、素描だけ述べておく。

犯罪者に意味付けをすることは「諸刃の刃」である。

犯罪者の動機を深く分析し社会的な意味を考察することは、人々に「自分自身も犯罪者に通じる部分があるのかもしれない」という自省させる、いわば啓発的な効果が期待できるのだ。

その一方で、犯罪者の動機分析は逆に、ある特定の人物に対しては「自分と同じ思いを持った人間がいた」という刺激を与えてしまい、類似事件を発生させる引き金になってしまう危険もある。

しかし、それでも私は、犯罪者の社会的な意味を考えることは無駄ではないと信じている。そこには、犯罪者を単純に「きちがい」とか「異常者」として片付けることでは見えてこないリアルが存在しているはずなのだ。

そして、もしそのようなリアルが存在しないのだとしたら、私たちは社会をより良いものに変えていくための一切の契機を持たないことになってしまう。常に一定の割合で「異常者」が発生することを仕方ないものとして怯え続ける社会など誰が望むだろうか。

犯罪の社会的な意味を考えることは、自分自身に引きつけてその問題を考えるということだ。それを生かすか殺すかは我々一人一人の「自分自身と向き合う強さ」―それは村上春樹の言う「タフさ」に近いものかもしれない―にかかっている。
posted by Tommy at 23:59| Comment(0) | ウェブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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