2009年02月10日

私の体だってメディアなんです。

思春期に誰しも経験する鏡の中の自分の姿への失望。背が低い、肩幅が狭い、胸が小さい、二重じゃない、唇が厚い、鼻が大きいなど、他人が見てもたいして気にならない些細な部分をとかく気にしてしまう。テレビや雑誌に出ている芸能人は完璧な顔立ちと体型をしているのに、何で俺は/私はこういう外見なんだろう・・・。芸能人とまでいかなくても、身近にもルックスのいい人はたくさんいる。彼は/彼女は容姿に恵まれていて羨ましい。きっと人生も楽しいに違いない・・・。

メディアを「人と世界を媒介するもの」と定義した場合、人間にとって最も決定的なメディアとは、他でもない「身体」であろう。人間は「身体」というメディアを媒介して、世界を捉える。人間に限らず、全生物は己の身体をメディアとしてそれぞれ「固有の世界」を知覚している。例えば、人間を遥かに越える嗅覚を持つ犬が知覚している世界や、複眼や触覚を持つ昆虫が知覚している世界が、人間とは異なるものであるということは想像に難くない。

そう考えると、人間同士の中でも「身体」の差異によって、世界は違った色彩を帯びてくるのは当然といえる。これは単に、背が高い人間の方が背が低い人間より遠くまで見渡せるとか、太っている人の方が痩せている人より動作が重くなるというような、物理的に知覚可能な世界の差異に留まらない。人間における「身体」の差異は、物理的世界というよりも、社会的世界に決定的な影響を与える。男の体か、女の体かなんてまさにそうだし、顔立ちや体型、更に言えば肌や目の色の違いが、当人の社会的世界を決定付けてしまうのだ。

世の中には不幸にも自分の身体をどうしても受け入れられない人が少なからずいる。そういう人々は、鏡に写る己の姿に絶望し、耐え難いコンプレックスを抱く。こんな体に生んだ親を許せないと、自分の両親を恨んだりもする。このような歪んだ、しかし切実な問題を抱えてしまった場合に解決する方法は主に2つある。

1つは身体自体を変えてしまうこと。美容整形などはその最たる例だ。昔テレビ番組で、容姿にコンプレックスを抱いて暗い人生を送っている女性が、美容整形を通して外見を劇的に改造して、前向きな人生を歩む過程を楽しむものがあった。親が生んだ体を改造するなんてという意見もあるのだろうが、私自身はそれで本人が一度しかない人生をいくらか前向きに明るく生きられるのならそれでいいのではないかと思う。しかし、身体改造というものが、身体を「メディア」として対象化して意のままに操るという、人間特有の極めて万能的な世界観の顕著な例であることは確かだ。黒人であることにコンプレックスを抱いて漂白剤などで無理やり肌を白くしたアメリカのミュージシャンや、シークレットブーツなどでブラウン管に写る自分の身長を少しでも高くしようと必死な我が国の芸能人たちも、本質的にどれも変わらないのかもしれない。

もう1つの方法は、認識を変えること。認識を変えるとはつまり「捉え方」を変えるということだ。よくコンプレックスをバネにすると言うが、自分が欠点だと思い込んでいる身体に別の「意味づけ」を行うのだ。例えば、太っていると包容力があるとか、背が低いと愛嬌が出てくるとか、二重じゃないのだったら和風美人を目指すとか、欠点と思い込んでいる要素を生かす方法などいくらでもある。あるいは、身体的に恵まれていない場合は頭脳を磨いて活躍しようとか、歴史上の偉大な発明家には、そのような身体的コンプレックスがモチベーションになっている例も少なくない。この「捉え方」を変えると世界が変わるという真理は、古来から宗教や文化、最近では自己啓発などの根本的なテーマでもある。

いずれにせよ、身体というものは人間にとって(いや全ての生物にとって)最も重要なメディアであることは自明の理で、それといかに付き合っていくかに、各個人の人間性が現れてくるのではないかと思う。

posted by Tommy at 10:23| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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