2009年02月18日

社会学だけが捉えられるリアリティー 内田隆三『社会学を学ぶ』

社会学を学ぶ (ちくま新書)
内田 隆三
4480062270


2005年4月1日初版。入門書だと思って読むと面食らう読み応えのある内容。著者自身の研究遍歴を通して語られる、理論社会学史とでも呼べば、それほど的外れではないだろう。そこで追求されるのは「社会とは何か」という本質的な問いである。専門用語も頻出し、決して読みやすい本ではないが、一読すれば社会学がいったい何を解明しようとしているのかを、実感を伴って理解することができるだろう。

「社会」とはまことに曖昧な、捉えどころのない言葉である。小学校の教科書などには、よく東京駅前の横断歩道を渡る人たちの写真を載せて、「私たちの社会」と書いていたりする。しかし、いうまでもなく「社会」は駅前のサラリーマン達だけを指すわけではない。社会とは実体として存在するものではなく、人と人との関係の中から生起するある種の「現象」である。そして我々は自分たちで生み出した「現象」の中に同時に含まれてもいるのである。

本書の第一章で紹介されるデュルケムの『自殺論』は社会学の古典中の古典である。私も大学1年生の時に中公文庫版で読んだ。自殺という極めて個人的な行為ですら、社会によって規定されているということを実証的に示した衝撃的な本だ。著者はデュルケムとの出会いを通して、次のような考えに至ることになる。

「私のもっとも根源的な投企であるはずの自殺という行為――それは主体的な意志がなければ不可能に見える行為である。主体性の極地であるような行為の、まさにその核心において、社会のありようという見えない力がはたらいており、結果として、また全体として、一定の規則性が貫いているのだとすれば、それは怖ろしいことに思えた。(中略)この力の構造を把握し、一定の方法で操作し、制御することが可能だとしたら、社会学は魅力的だが、何か怖ろしい学問だというべきだろう」(P.47)

この認識は、私が学生時代に抱いたものとほぼ完全に重なる。学生時代に自分のアイデンティティーについて真剣に悩むことは誰もが経験することだろう。特異だと思っていた自分が、実は極めて平凡な存在でしかなかったことを知ったときのあの失望感。私はそのような失望を味わった時に、つまり自分のような人間が世の中に大量にいると知ったときに、一人ではないんだという安心感よりもむしろ、自分が何か大きな目に見えない力によって拘束されているような恐怖を感じたのだ。

社会的動物である人間が社会から自由になることは論理的に不可能だ。しかし、何も知らずにただ社会に拘束されて生きるのと、社会が個人の生を規定する構造を把握し、その手の内を知った上で生きるのとでは、天と地の差がある。この時私が達した結論は「人間は知ることでしか自由になれない」という当たり前の事実だった。どちらの生き方が倫理的に良いとは一概には言い切れない。しかし私は、知ること、そして探求し続けること、そういうスタンスの方が「好き」だったからそれ選んだ、それだけのことなのだ。

本書は、著者や私と同じような悩みを持ったことのある人にはぜひ紐解いていただきたい良書だ。そこには、哲学にも、心理学にも、生物学にも、脳科学にも還元できない、社会学だけが光を当てることができるリアリティーが存在しているのである。

posted by Tommy at 11:09| Comment(1) | 本(社会学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「人間は知ることでしか自由になれない」

古くはカントにまで還ることのできるテーマですが、ひとが本当に自由か否か、それは答えの出せない問いです。このことからすれば、前中期フーコー的な規律権力にまつわる議論は全てスコラ議論として一掃できるものです。問題は、人びとがいかに自由をリアリティとして「実感」できるか否かということになります。その実現可能性を整えるために人間は理性を使うことができるのであって、その際のひとつの思考ツールとして、社会学は意味をもつと思います。
Posted by _ at 2011年06月20日 17:48
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