2009年06月07日

【book】『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』本谷有希子

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)
本谷 有希子
4062757419


単行本は2005年7月刊。私にとって初めての本谷有希子作品。私は、読んだことのない著者の小説を初めて読む際は、かなり斜に構えて読むようにしている。つまり、その著者が本当に信頼するに足りるかどうか評価しながら読むのだ。今日、小説なんて吐いて捨てるほど出版されているのだし、小説以外にも物語の楽しさを経験できるメディアなんていくらでもあるのだから、つまらない小説に費やせる時間などないのだ。

その一方で、本当に信頼に足りる作家を見つけることが出来たら、今度はその作家の作品は全部読もうとする。気に入った作家の小説を読むことは、人生の中でも5本の指に入るくらいの至福なひとときだし、単に楽しめるだけではなく、人生に関する深い洞察や新しい世界観を得ることもできる。そして何より、「気に入る」ということは、自分の内面と何らかの関係を持っているということであり、そういう作家の作品を読むことは、自己省察にもつながるのだ。

では「信頼に足りる作家」とはどういう基準で判断すればよいのだろうか。私の場合は、小説はほとんど純文学しか読まないので、その際の判断基準は、桑原武夫の『文学入門』の影響が大きい。桑原は優れた文学の条件として次の3点を挙げている。

文学入門 改版 (岩波新書 青版 34)
桑原 武夫
4004140013


@新しいこと
A誠実であること
B明快であること

私の場合、Bは特に重視しないが、@とAはかなり重要な判断基準になっている。@は単純な意味で内容が新鮮であることはもちろん、もっと深い意味としては「芸術的」であることを意味する。芸術とは、常識的なものの見方に揺さぶりをかけて、新しい世界観を提供するものである。Aは、作者が心を魅かれた対象に対して誠実であることを意味する。作者が感動した対象に誠実に接していなければ、読者はそのような作者の感動を追体験できなくなってしまうのだ。


このような意味で、私は本作品で幸運にもまた1人「信頼に足りる作家」を見つけることができた。本作品は、地方の過疎化した村を舞台に、女優志望で自意識過剰な姉・澄伽(すみか)と、そんな姉を嘲笑と反抗の眼差しで見つめる妹・清深(きよみ)との、壮絶な家庭内暴力を、物語の1つの軸として展開する。

澄伽は自分に女優の才能があることを信じて疑わないのだが、家族や周囲の人間はそのような澄伽を冷ややかに見つめる。客観的に見ると才能がないのは明らかなのに、澄伽はそれを認めようとしない。それを認めてしまえば、澄伽は完全に自分というものを失ってしまうからだ。ここに現代人特有の、アイデンティティー・クライシスに苛まれる人間の、精神の危機が現れている。

俳優に限らず、タレント、ミュージシャン、マンガ家など、「芸能」を志す、いわゆる「夢追い人」は、客観的に見て才能があれば問題はないのだが(ちなみに私は才能は後天的に養成されるものだと考えているが)、そうでない場合は、なんと周囲から見て「もの悲しい」ものなのだろうか。早く目をさましなよと言ってやりたいのはやまやまなのだが、それでは当人の夢を壊すことになってしまう。しかし、まったく己を客観視せず、ひたすら夢を追うという、その「純粋さ」「無邪気さ」「盲目さ」に、悲しみを、苛立ちを感じずにはいられない。

本作品は、このような自意識過剰で己を客観視できない「イタい」夢追い人の「もの悲しさ」を巧みに描いている。物語の前半で、澄伽は、ある映画監督の小林哲生と文通を始め、その手紙の中で次のように書いている。ちなみに、澄伽は舞台女優でほそぼそと活動したことがあり、また哲生は撮影中の映画の主役の女性を探しているという流れ。

「そういえば、こないだまだ決まらないと言っていたヒロインの候補は思い付きましたか?折角の大きな企画なんだから、イメージ通りの女優さんが見つかるといいですね。演技力と色気のある美人……。うーん、確かに哲生さんの言う通り、顔がきれいで本当に演技が上手い女優って最近少ないと思います。参考になるかどうか分からないですけど、もし煮詰まってるなら、映画方面だけじゃなく舞台中心にやってる女優さんなども探してみたらどうですか?もしかして意外といい人がいるかもしれませんよ。みんなが見逃しているダイヤの原石が(笑)」(P.66)

イタタタタ……、という感じである。こういう人を見ていると本当に「悲しく」なってくる。しかしそれはあくまで第三者の場合であって、身内であればこの作品の妹・清深のように「苛立ち」の感情も芽生えてくるのだろう。しかし、清深の内面はそのような苛立ちに留まることなく異様な形に変容していってしまう。それは「愚かな姉の姿を多くの人間に知らしめたい」という欲望だ。(この欲望がきっかけで、澄伽の清深への壮絶な暴力が展開される。)この特殊な欲望にも「新鮮さ」を感じた。女優志望で自意識過剰な姉、そんな姉を客観視してその愚かさを人に知らしめたい妹。恐らく、この姉と妹を足して2で割ったのが作者自身なのではないか。(まあ純文学なのだから当たり前か)

ただこの2人の軸が秀逸だった分、物語の後半で、澄伽の腹違いの兄やその嫁の半生のエピソードが出てきたときは、少し唐突な感じがした。この2人のエピソードが入ることで、途端に安っぽい群像劇のような印象を少なからず受けてしまったのが惜しかった。しかし、作者は演劇の監督もやっているというのだからこういう群像劇的な書き方になるのも無理はないのかもしれない。しかしそれを差し引いても、主人公の姉妹の物語は、私に新鮮で追体験可能な人間観・世界観を与えてくれた。今後も本谷有希子の作品は折に触れて読んで行きたいと思う。
posted by Tommy at 22:26| Comment(0) | 本(文学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。