2009年06月23日

ねじは巻かれた。

村上春樹の最新作『1Q84』が予想通りとてつもない売れ行きを示している。イスラエル賞受賞時のスピーチが、当時の中川財務相の泥酔会見という最高の「ひきたて」もあり、世界に誇れるカッコいい日本人として注目された記憶もさめやらぬ中の、満を持しての新作。売れないわけがない。

1Q84 BOOK 1
村上春樹
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1Q84 BOOK 2
村上春樹


そんな村上春樹の1つ前の長編といえば『ねじ巻き鳥クロニクル』だが、私はその中で出てくる「ねじ巻き鳥」を勝手に「運命の歯車」と理解している。物語の要所要所で現れる「ねじ巻き鳥の“ぎいいい”という泣き声。この声と共に、主人公の運命の歯車は回り始める。そういう読み方をしたのだ。


ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)
村上 春樹
4101001413




そのような前置きは踏まえた上で、
人生における「ねじ巻き」について書きたい。



人生において、ねじは必ず巻かれるものなのだ。


どんなに辛くても

どんなに未来が真っ暗になっても

どんなに死にたくなっても


生き続けること。


耐える続けること。

待ち続けること。

抗い続けること。


生き続けてさえいれば、

いつか必ずねじは巻かれる


運命の歯車は回りだす

そうすれば人は動き出すことができる
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2009年05月23日

前進か後退か…、あるいは道に迷った時に響くデカルトの言葉

大学院の生活にもやっと慣れてきたので、またぼちぼちブログの更新もしていこうと思う。院ってもう少し時間に余裕があるのかと思っていたら、読む文献の量も結構多いし、授業での発表も頻繁にあるし、なかなか忙しい。それでも会社員の時の忙しさとは質がぜんぜん違っていて、こちらの忙しさは全く苦にならないし、ストレスにもならない。手帳に、読まないといけない文献を書き込んでいって、マクルーハン、ハーバーマス、デリダとかずらずら並んでいって、うわあ大変だなあと思いつつも、ぞくぞくしてくる。

会社員時代は、まあ業種によっても異なるのだろうが、毎日代わり映えのしない業務の繰り返しで、同僚はみな早く休日が来ることだけを楽しみに、日々の仕事をやり過ごしていた。そんな生き方って嫌だなあとずっと思いながら働いていた。人生一度しかないのに、1週間の内の5日間も「早く過ぎないかなあ」と思いながら暮らす人生。そんなの絶対に間違っていると思っていた。

しかし、今は毎日もっと濃密な時間が流れている。文献と格闘している時間は辛くもあるが、自分の精神が少しずつ磨かれ、豊かになっていくのを実感することができる。会社員時代にも、このような実感、つまりどんなに忙しくても、少しずつ「前進」していっている感触、そのようなものがあれば、もう少し続けていたのかもしれない。

しかし、院での至福の時間も、うかうか満喫してばかりはいられない。ある程度の年齢になっておきながら、社会的には、また、何も生産しない状態になってしまったという「後退」の感触もなくはないからだ。これは退職した時に一番痛切に感じた。平日の昼間から私服で街を歩いているときにホワイトであれブルーであれ、仕事着を身にまとった人たちを見た時に感じるあの、うしろめたさ。「働かざるもの食うべからず」という、勤労主義をもっとも象徴することわざが、まあ身に刺さる、刺さる。

10年くらい前に、Mr. Childrenが『regress or progress』というツアーをやっていたが、まさに、と今改めて思う。もともと人生において、自分の選ぶ、あるいは選んだ道が、前進なのか後退なのかは、まったく判別しづらいものなのかもしれない。価値観や考え方によっても変わってくるし、時間的スパンによっても変わってくる。前進だと思って下した決断が後退だったり、あるいはまたその逆もあるだろう。

しかし、たとえ前進であれ後退であれ、「今自分がいる場所から移動している」ことだけは確かなのだ。前進なのか後退なのか思い悩んで、いつまで経っても歩まずにいたら、どこへも行けない。デカルトは『方法序説』の中で、「森の中で道に迷った旅人」の例を挙げて次のように述べている。

「旅人は、あちらに行き、こちらに行きして、ぐるぐるさまよい歩いてはならないし、まして一ヶ所にとどまっていてもいけない。いつも同じ方向に向かってできるだけまっすぐ歩き、たとえ最初おそらくただ偶然にこの方角を選ぼうと決めたとしても、たいした理由もなしにその方向を変えてはならない。というのは、このやり方で、望むところへ正確には行き着かなくても、とにかく最後にはどこかへ行き着くだろうし、そのほうが森の中にいるよりはたぶんましだろうからだ」(谷川多佳子訳 P.36)

この文章は、大学で初めてこの本を読んだ時以来、私の心の支えになっている。

方法序説 (岩波文庫)
Ren´e Descartes 谷川 多佳子
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2009年02月20日

万歩計は最強のダイエットツールだ!

私は外出するときはいつも必ず万歩計を持つようにしている。

しまう所はいつも同じでジーンズの右ポケットだ。たまに家に忘れたりすると、携帯電話を忘れたときのように困ってしまう。場合によっては家に取りに戻ることもあるくらい。それほど万歩計は私にとって欠かすことができないツールなのだ。

万歩計を持ち歩いている時は、ふと思い出したときにポケットから取り出して歩数を確認するようにしている。そして予想よりも多く歩いていたときなどは、思わずニヤリとしてしまうのだ。

それにしても、そもそもなぜ私は万歩計を持ち歩くのか?

それは「万歩計ほど、日常の中で意識的に歩く時間を増やすモチベーションを高めてくれるメディアは他に存在しない」からだ。

万歩計は言うまでもなく自分が歩いた歩数を可視化してくれるメディアだ。万歩計がないと歩行は、日常生活の中で、最も原始的でかつ時間のかかる移動手段となる。しかし、万歩計があると非効率的な移動手段である歩行を、歩数という尺度で可視化し、運動量を明確に示してくれるようになる。当たり前のことだが、極端に至らなければ、運動量が増えることは健康維持の最善の方法だ。

万歩計の歩数が溜まっていくことは、それだけ健康に近づくバロメーターとなる。いわば、万歩計とは、歩行という地味で疲れる移動手段を重ねることで、健康を買うための運動を貯めていく貯金箱のようなメディアなのだ。

万歩計は、歩行の意味を変えるすごい力を持っている。
「おっさんくさい」などと言わず、外出のお供にぜひ使用してみてはどうだろうか。
ちなみに私が使用している万歩計は下記のオムロン製。消費カロリーや移動距離が確認できる他、7日前までの歩数を記録しておくこともできる。

オムロン ヘルスカウンタ Walking style HJ-113 ブラック
B0001Z8VKA



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2009年02月11日

近所のカフェで見た効率の悪い勉強法

今日も空いた時間に近所のカフェで本を読んでいると、受験生と思しき何組かの客がコーヒーをすすりながら勉強に勤しんでいた。そういえば今月は2月、大学受験の真っ最中の時期だ。私も大学受験は1年浪人して猛勉強した経験あるので、様々な思いが蘇ってくる。気分転換として行った予備校の夏期講習以外は宅浪だったので、勉強計画も全て自分で立ててノートに書いて管理した。友人には悪いが携帯の電源は切って文字通り缶詰になって1日10時間以上勉強し続けた。あまりにも根を詰めすぎたので、受験直前期になると、若干精神が病み始めていたのだが、何とか志望大学には合格することができた。

そんな自分の受験時代を思い出しながらカフェで勉強をしている受験生たちを見ていると、ちょっと効率的とはいえないような勉強法をしている人たちが何人かいた。一番いけないのは友達と一緒に勉強しているパターン。私は勉強とは基本一人で行う孤独な作業だと思っているので、二人以上で勉強する人の気が知れない。私が今日見た二人組の少年は日本史の勉強をしているようだったが、雑談ばかりで一向に勉強が捗っているようには見えなかった。家庭教師とかならば、勉強の内容について質問できるのだからいくらかメリットもあるのだろうが、自分と同じレベルの友人と一緒に勉強することで得られるメリットなんてあるのだろうか?家に友達を呼んでも一緒に何かして遊ぶのではなく、ただ同じ部屋で黙々と携帯ゲームをやったりする今時の子供の様に、単に近くに友達が「いるだけ」でよいのだろうか?

もう一つ非効率的だと感じたのが、iPodを聞きながら勉強しているパターン。クラシックとか歌詞のない音楽であれば勉強には支障はないというが、今日私の隣で勉強していた受験生は、イヤホンから音が洩れまくっていて、誰が聞いてもEXILEだった。そんな曲聞きながら勉強したって、効率なんて上がるわけがない。しかも、その受験生は、市販の単語集の単語と意味を丁寧にノートに書き写していた。いったい何のために?単語を覚えるのであれば、単語集の中で覚えればいいのに、なぜまたノートに順番通り綺麗にコピーしていく必要があるのだろう。今の単語集には答えを隠せる赤シートが付いているものがほとんどなのだから、紙に書き写している暇があったら、何度もシートを使って意味やスペルを想起する練習をした方が遥かに効果的なのに。

両者に共通するのは、「効果性」を無視した勉強をしている点だ。友人と一緒に雑談しながらだろうが、とりあえず参考書は開いている。iPodを聞きながらだろうが、とりあえず単語を紙に書き写している。いわば勉強しているという「モーション」だけで安心してしまっているのだ。「モーション」だけではいつまで経っても勉強の成果はでない。勉強というものは、自分の知性を少しでも高めようとするプロセスなのだから、勉強後に自分がどういう状態になっていたいのか、つまり勉強によって得られる「効果」を明確に意識して実行していく必要があるのだ。


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2009年02月10日

私の体だってメディアなんです。

思春期に誰しも経験する鏡の中の自分の姿への失望。背が低い、肩幅が狭い、胸が小さい、二重じゃない、唇が厚い、鼻が大きいなど、他人が見てもたいして気にならない些細な部分をとかく気にしてしまう。テレビや雑誌に出ている芸能人は完璧な顔立ちと体型をしているのに、何で俺は/私はこういう外見なんだろう・・・。芸能人とまでいかなくても、身近にもルックスのいい人はたくさんいる。彼は/彼女は容姿に恵まれていて羨ましい。きっと人生も楽しいに違いない・・・。

メディアを「人と世界を媒介するもの」と定義した場合、人間にとって最も決定的なメディアとは、他でもない「身体」であろう。人間は「身体」というメディアを媒介して、世界を捉える。人間に限らず、全生物は己の身体をメディアとしてそれぞれ「固有の世界」を知覚している。例えば、人間を遥かに越える嗅覚を持つ犬が知覚している世界や、複眼や触覚を持つ昆虫が知覚している世界が、人間とは異なるものであるということは想像に難くない。

そう考えると、人間同士の中でも「身体」の差異によって、世界は違った色彩を帯びてくるのは当然といえる。これは単に、背が高い人間の方が背が低い人間より遠くまで見渡せるとか、太っている人の方が痩せている人より動作が重くなるというような、物理的に知覚可能な世界の差異に留まらない。人間における「身体」の差異は、物理的世界というよりも、社会的世界に決定的な影響を与える。男の体か、女の体かなんてまさにそうだし、顔立ちや体型、更に言えば肌や目の色の違いが、当人の社会的世界を決定付けてしまうのだ。

世の中には不幸にも自分の身体をどうしても受け入れられない人が少なからずいる。そういう人々は、鏡に写る己の姿に絶望し、耐え難いコンプレックスを抱く。こんな体に生んだ親を許せないと、自分の両親を恨んだりもする。このような歪んだ、しかし切実な問題を抱えてしまった場合に解決する方法は主に2つある。

1つは身体自体を変えてしまうこと。美容整形などはその最たる例だ。昔テレビ番組で、容姿にコンプレックスを抱いて暗い人生を送っている女性が、美容整形を通して外見を劇的に改造して、前向きな人生を歩む過程を楽しむものがあった。親が生んだ体を改造するなんてという意見もあるのだろうが、私自身はそれで本人が一度しかない人生をいくらか前向きに明るく生きられるのならそれでいいのではないかと思う。しかし、身体改造というものが、身体を「メディア」として対象化して意のままに操るという、人間特有の極めて万能的な世界観の顕著な例であることは確かだ。黒人であることにコンプレックスを抱いて漂白剤などで無理やり肌を白くしたアメリカのミュージシャンや、シークレットブーツなどでブラウン管に写る自分の身長を少しでも高くしようと必死な我が国の芸能人たちも、本質的にどれも変わらないのかもしれない。

もう1つの方法は、認識を変えること。認識を変えるとはつまり「捉え方」を変えるということだ。よくコンプレックスをバネにすると言うが、自分が欠点だと思い込んでいる身体に別の「意味づけ」を行うのだ。例えば、太っていると包容力があるとか、背が低いと愛嬌が出てくるとか、二重じゃないのだったら和風美人を目指すとか、欠点と思い込んでいる要素を生かす方法などいくらでもある。あるいは、身体的に恵まれていない場合は頭脳を磨いて活躍しようとか、歴史上の偉大な発明家には、そのような身体的コンプレックスがモチベーションになっている例も少なくない。この「捉え方」を変えると世界が変わるという真理は、古来から宗教や文化、最近では自己啓発などの根本的なテーマでもある。

いずれにせよ、身体というものは人間にとって(いや全ての生物にとって)最も重要なメディアであることは自明の理で、それといかに付き合っていくかに、各個人の人間性が現れてくるのではないかと思う。

posted by Tommy at 10:23| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月29日

悩み事を人に相談しても9割意味がない

物心ついた時から、私は自分の悩みを人に相談したという経験がほとんどない。

もともと、あまり自分のことを話さないタイプではあったが、それでも、仲のいい友達には、悩みのひとつやふたつくらい相談してもよさそうである。でもそれもしない。

いったい何でだろうと考えたとき、それはやはり「意味がない」からなのではないかと思った。

大学生の頃やっていたバイトの同僚で、同じように人に悩みを相談しても意味がないと考えているやつがいた。彼は、「人の悩みなんて実は当人の中ではもう答えが決まっていることがほとんどだ。だから悩みを相談された方は、当人がどっちに進みたいのか聞いて、その方向に背中を押してやればいいだけ」という考えの持ち主だった。

この「悩みの答えは当人の中にある」というのは、ある程度正しくて、その悩みが出てくるにいたった過程を全て経験しているのはこの世で当人ただ一人なのである。他の人がどれだけその過程を想像しようとも、当人ほど完全に経験することなど不可能だろう。あるいはこう言ってもいいかもしれない。悩みを一番深刻に考えているのは当人であり、周囲の人間がどれだけ真剣に考えても、当人の深刻さには及ばない。従って、悩みの答えを出せるのは結局当人がベストということになる。

それに実際、人に悩みを打ち明けた時の相手の反応というのも、まことに粗末なものではないか。友人に悩み事を相談した時の反応なんて、だいたい次のパターンのどれかに当てはまるだろう。

@とにかくポジティブになりなよ系

「悩んでたって仕方ないって!元気だしな!」
「お前だったら大丈夫だって。何とかなるよ!」

温かい励ましの言葉ではある。しかし、前向きになった所で解決されない問題というのも当然世の中にはたくさんあるし、そういう問題で悩んでいるときにこんな風に励まされても返って腹が立つだけだ。


A難しいよね〜系

「ん〜、難しいよね〜」

特に説明不要かもしれないが、多少なりとも込み入った問題を話すと条件反射的に「難しいよね〜」で済ましてしまう人が世間には少なからずいる。いや、というかかなりたくさんいる。


B私も昔そういうことあった系

「あ〜、私も昔そういうことあったよ。あの時は大変だったな・・・」

一見、過去の体験に照らして悩みに共感してくれる姿勢を示してはいるのだが、大抵はもう自分の話をすることがメインになってしまう。ひたすら話している内に何か別のトピックが出てきたら、瞬間的にそちらにシフトし、もう当人の悩みなどどこへやらだ。

もちろん、上記のパターンに当てはまることなく、真摯に悩みを聞いてくれる人も少なからずいる。しかし、そういう人でも、やはり悩んでいる当人ほど深刻に、我が事として考えられる人はまずいないのだ。

しかし、そうはいっても、人に悩みを相談することで何かしらのメリットを得られることもなくはない。

例えば、人に悩みを説明することで、悩んでいた事柄が整理されて、解消に近づく「物語効果」とか、あるいは語ること自体である程度鬱積していたものが発散される「カタルシス効果」とか。

でも、そういうのって、何だか相手を「道具」として使っているようで、私はあまり好きじゃない。自分の悩みを解決するために、正面に人を置いてモノローグを語るなんて、私はできない。

やっぱりどう考えていっても、人に悩みを話すことは無意味な気がしてならないのだが、最後に1点かなり重要なメリットを忘れていた。

それは「視野狭窄からの脱出」

ある問題で悩むと、当人はそのことで頭がいっぱいになってしまい、普段であればできるような様々な物の見方が制限されてしまうことがある。例えば、いじめ、過剰労働、多額の借金、失恋など、何か重大な問題を抱えたとは、そのことで視野が埋め尽くされてしまい、冷静に考えれば解決する手段はあるはずなのに、もう死のうと決意してしまったりする。視野狭窄は自殺へのパスポートのようなものだ。

そういう時、身近な人に相談すると、ぽ〜んと視界を開かせてくれるようなことを言ってくれる場合がある。未来は完全に真っ暗だったのに、いくらか何とかなりそうなイメージが湧いてくる。危ない、危ない、もうちょっと頑張ってみないとなと気を取り直す。そういう時は、人に相談することも必要なのだなあと思ったりもする。

結局、人に悩みを相談することは9割がた徒労に終わることが多いと思う。しかし、それでも、自分が視野狭窄に陥っているような深刻な悩みの時は、1割の望みにかけて、周囲の人に相談した方がいい。その人の何気ないひと言が自分の命を救ってくれるかもしれないのだから。
posted by Tommy at 00:41| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月26日

カップルの新しいコミュニケーション方法A―精密コードと限定コード

■精密コードと制限コード

前回の記事の補足。カフェで向かい合わせになって、互いに会話を交わすことなくただひたすらPSPをプレイし続けるカップルは、ゲーム世界で通信プレイをしていた可能性があるので、そこには「内容」のともなったコミュニケーションが存在する。

しかし、街を見渡してみると、それこそ向かい合って互いに一言も口を利かずケータイをプレイしているだけ、マンガを読んでいるだけというカップルも結構見かける。

このようなカップルはお互い話すことがないから黙っているのだろうか。それとも、「一緒にいてラク」な恋人は、単に孤独感を紛らわすためのツールに過ぎず、前に座らせておいて後は自分の好きなことをやろうというスタンスなのだろうか。

無論、全ての若いカップルがこうかというとそんなことはなく、他愛もない話に花を開かせている者たちも多い。

これはあくまで私の仮説だが、会話するカップルと会話しないカップルは、イギリスの社会学者兼、言語学者バーンステインの言う「限定コードと精密コード」に関係しているのではないか。

★限定コードと精密コード(Wikipedia)

「簡単に言えば、精密コードは、物事を客観的、抽象的、人格的に述べるコードであり、限定コードは、物事を主観的、地位的に述べるコードである。」

更に社会学小辞典(有斐閣)によると、限定コードとは、「相対的に単純な語彙や統語構造の発話」を規制するコードとも記述されている。

この議論は単純に「労働者階級の子供は言語能力が優れていない」という身も蓋もない意見になってしまうので、安易に持ちだすのは良くないのかもしれない。

しかし、この概念をあえてカップルに当てはめてみると、精密コードのカップルは活発に会話を交わし、限定コードのカップルは特に会話もなく黙々と「主観的な」メディア世界に没頭することができると考えられるのではないか。

限定コードのカップルが、やがて結婚し子供ができても親がこの調子だと子供も限定コードに育つ可能性が高い。かくして、文化格差は再生産されていくのだ…。




posted by Tommy at 23:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月25日

カップルの新しいコミュニケーション方法―向かい合って無言でPSPをやる

■無言でPSPをやり続けるカップル

以前とあるカフェで、若いカップルが向かい合わせに座りながら、お互いほとんど口をきかず黙々とPSPをやっていた。本当に時折、ゲームに関してちょこっと会話したかと思うとまた直ぐにゲームの世界に戻ってしまった。若い男女が向い合せになれば、何らかの会話を楽しむか、もしくはケンカしていてむっつり押し黙っているか、どちらかだと思っていた私は、少なからず衝撃を受けた。

これは中野収氏の名著『メディア人間』に登場した、バスに乗り合わせた学生が互いに会話することもなくウォークマンを聞くというあの「メディア人間的」なコミュニケーション形体なのではないか。

メディア人間―コミュニケーション革命の構造
メディア人間―コミュニケーション革命の構造

電子メディアが発達する以前は、コミュニケーションというものはFace to Faceのものがメインだった。(手紙などはあったが。)それが、電話、テレビ、ウォークマン、インターネットなどの発達により、メディアを媒介した新しいコミュニケーションが次々と誕生している。

それらのメディアを介したコミュニケーションを、一概に「Face to Faceより劣るもの」と決め付けることはできない。

例えば、ブログを介したコミュニケーションなどは、自分自身の趣味や価値観をFace to Faceの時よりも遥かに的確に伝えられるということもあるのではないか。実際に対面して、自分とはこういう人間ですと説明するよりも、自分のブログを相手に読んでもらった方が、遥かに自分という人間を理解してもらえるというケースもあるのではないか。

今回の対面状況でのゲームを介したコミュニケーションもそうだ。プレイしているソフトは確認できなかったが、例えば「モンスターハンター」であったとしたら、2人で強力して巨大モンスターを狩りに行く冒険をしていたかもしれないのだ。片方が剣を駆使して必死にモンスターと戦い、もう片方が傷ついた相方を魔法で回復させている。この無味乾燥な現実世界を離れて、2人で壮大な冒険の経験を共有していたかもしれないのだ。

電子メディアの発達は、従来のコミュニケーションの延長としては捉えきれない、質的な変化を確実にもたらしている。我々は、従来の「Face to Face」=正、「メディアコミュニケーション」=誤という単純な二項対立に陥ることなく、この新しいコミュニケーションを正確に分析していかなくてはならない。
posted by Tommy at 23:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月22日

管理人のプロフィール

管理人のプロフィールページをまだ作っていなかったのでentryしておきます。

Seesaaブログには、はてダみたいな気の利いたプロフィールページがない。
だからこうして記事をentryして作成しないといけない…。


■当ブログについて

 脱サラ大学院生が、日々思ったこと、考えたことを綴るブログ。
 社会学関連の大学院に所属しているため、それ系の本の紹介や、
 気に入った映画や音楽の紹介、気になったニュースへのコメントなども書いていきます。

■管理人

 Tommy

■性別

 男

■プロフィール

 東京生まれ。大学卒業後、一般企業で営業職を経験、退職。
 都内の大学院に在籍中。

■趣味

 ・読書。趣味欄に読書と書いてもあまり意味はないが。
  ジャンルは社会科学関連、小説、ビジネス書など。
 
 ・音楽鑑賞。コテコテのポップスが好きだった。
  最近はやっとUKロックとか通好みの音楽の良さが分かるようになってきた。


ひとまず以上です。
今後必要に応じて補足していきます。

こんな私でよろしければ、これからもどうぞお越しくださいませ。


posted by Tommy at 22:47| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月20日

ブログリテラシーについて

■私のブログ原体験

忘れないうちに書いておこうと思って筆を取る。(というかキーボードに手を置く)私が初めてブログを始めた時の経験を。

まずは、インターネットで初めてブログというものを閲覧し始めた時について。それまでの私はブログ=個人的な日記をWEB上で公開すること、という固定観念しかなくて、ずいぶん物好きな人たちがたくさんいるんだなあくらいにしか考えてなかった。

しかし、本や雑誌を見ている内に、ブログとは単なる日記だけじゃなく、ネット上の最新情報や、ライフハック、書評、社会時評など多様な情報を発信するメディアだと知った。

これは面白そうだと見始めたのが今年の夏頃(まだ最近だ…)無論、それ以前もネットサーフィンの最中にさらっと閲覧したこともあった。しかし、情報収集として意識的にブログを閲覧し始めたのはその頃だったのだ。

当時は会社員だったこともあって、「404 Blog Not Found」「マインドマップ的読書感想文」「俺と100冊の成功本」など、いわゆるビジネス書関連のブログから読み始めてみた。

その時の記憶として今でも残っているのが、「独特のインターフェースによる読みにくさ」だ。

まず日付順に縦に並んでいる膨大な量の記事につまづいた。ホームページは各画面がカテゴリ別などに整理されていて、メニュー画面から目的の画面に飛んで閲覧することが多い。しかしブログは初めから記事が何の工夫もなく日付順に羅列されていて、何だか下品に感じてしまったのだ。

次に「追記機能」というものが分かりづらかった。書籍の画像と文章が2〜3行並んでいるだけで、「ブログとはこんなに短く書くものなのか」と思っていたら、ふと記事欄に「続きを読む」というリンクを見つけてクリックしてみると全ての内容が出てきた。

記事欄の端に並ぶ「B」とか書かれた謎のボタンと3ケタの赤い数字(はてなブックマークだったのね…)、サイドバーに大量に貼られている種々雑多なバナーなども分かりづらかった。

要するに、ブログというものは、ホームページとは全く異なった構造とインターフェースで書かれており、閲覧するために固有のリテラシーが必要なメディアなのだ。ブログを閲覧し始めた当初は、私にこの「ブログリテラシー」とでも言うべきものが欠落していたために、思うように閲覧できないもどかしさやストレスを感じていたのだ。

■ブログリテラシーを考案する必要

ブログの「読み」については大いに戸惑った私も、「書き」については割とスムーズにクリアすることができた。私が利用したのはSeesaaブログだが、タイトルと説明と適当な文章を書いて保存すれば即座にあの私を苦しめたインターフェースのブログが出来上がった。

「読み」のインターフェースの分かりにくさとは裏腹に、「書き」は恐ろしいほどハードルが低いのもまたブログの特徴に感じた。このハードルの低さゆえに生じる問題も多い。記事の内容が元でコメント欄が炎上して閉鎖に追い込まれたり、不正な内容の記事がアップされたり。まあその程度の問題であれば2ちゃんねるの頃からあったわけだが、ブログの場合はある程度まとまった内容の記事を個人が書いている。そのため「芸能人ブログ同士のケンカ」などブログ特有の問題も生じてくる。

このようにブログは、ホームページと比べて、作成のハードルがあまりにも低いために、今や小学生から高齢者まで誰でもやっている。「おいおいそんなことまで書いていいのかよ!」と突っ込みたくなる内容を皆平気で書いている。特に著作権に関係してくる問題が顕著だ。ライブや講演会など、今日あらゆるパブリックなイベントは、ブログやYouTube、ニコ動などで無料で事後体験することが可能となった。

あまり好きな言葉ではないが、もともと「メディアリテラシー」という言葉は、メディアを批判的に利用する能力だけでなく、メディアを適切に利用して表現する能力も包含するものである。今日ブログほど独自のメディアリテラシー教育が必要とされているメディアは他にないのではないか。いずれ「学校裏ブログ」や「自殺ブログ」などが流行してくる前に、早期の対策が必要だと思う。


posted by Tommy at 23:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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