2008年11月18日

ブログタイトル変更について

諸般の事情によりブログタイトルを変更することにした。

「メディア論的生活」は今まで通り。副題に「song of media」と入れた。

メディア論的生活、それは周囲のあらゆるメディアが歌う歌に耳をすませながら生活すること。

そんな意味合いを持たせた。

それとこれもまた諸事情により管理人のハンドルネームも「Tommy」に変更させていただいた。

リンクを貼っていただいた方、記事に取り上げたりしていただいた方、には本当に申し訳ない。

どうぞ今後とも当ブログを宜しくお願いします。
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2008年10月29日

この東京には、まだ無数のストーリーが転がっているはずなのに

■退屈な日々

いつもの様に、高架になっている中央線の駅のホームから、見慣れた街並みを見下ろすと、何だかつまらないなあと思った。退屈な風景。退屈な生活。退屈な毎日。

なんでこんなに退屈なんだろう?それは「物語」がないからだとふと思った。物語というのは、小説とか映画とか単に娯楽の一形態ではなくて、もっと生活に根ざした、欠くべからざるものなのだと思う。

物語の定義は様々だろうが、私が考えたのが、「時間的に連続していて、相互に意味のつながりがある、イベントの集まり」というものだ。まわりくどい言い方だが、要は「筋があるイベントの集まり」ということだ。

例えば、よくある学園モノ。主人公の男が授業に遅刻しそうで慌てて廊下を走っているところ、転校生の女の子と鉢合わせになるという馴染みのシーン。このような現実にはあまりお目にかかりそうもないイベントも、その後何も発展性がなかったら物語は成立しない。

その後、ぶつかって険悪ムードになった二人が実は同じクラスだったことが発覚して、その後何となく放課後一緒に帰るようになって、いつしかひかれ合うようになって、と連続したイベントが続かないと物語は成立しない。

筋のあるイベントには「意味」がある。われわれ人間は、芸術家とか特殊な人種を除いて、「無意味」なものをつまらないと感じる。一方「意味」があるものに関しては面白みを感じる。ではなぜ「意味」があるものは面白いのか?

■物語が面白い理由

「意味」があるということは「何かと関係している」ということだ。「この仕事には意味がある」というとき、その仕事は成果と関係しているということを表わす。逆に無意味な仕事とは成果に結びついていない仕事を表わす。

ここからが安っぽいポピュラーサイエンスっぽくなってくるのだが、要は人間は頭の中で何かと何かがつながると快感を感じるようにできている。いわば物語というのは、脳神経細胞に次から次へと様々な発火を起こさせる連続打ち上げ花火みたいなものなのだ。

このような連続打ち上げ花火が、今の私の生活にはない。だから退屈なのだ。そんなことを思いながらいつものように中央線に乗る。窓の外には午前の日を浴びた東京の街並みが広がる。そこにはまだ出会えるはずのストーリーがごろごろ転がっているはずなのに…



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2008年10月25日

社会学者は株をやっていいのか

■資本主義に参加する罪悪感

先日、大学時代の友人と新宿でランチを食べた。

その友人は最近デイトレにハマっているらしく、始めて半年くらいで2〜30万円くらいの利益を上げているという。この金融危機の時期によく株なんかで儲けられるなあと目を丸くして聞いていた。

いかに安全に株で利益を上げるか、経済学者の意見は正しいか、などの話でひとしきり盛り上がった後、話題は一転、途中から「社会学者は株をやっていいのか」という議論になった。

私は大学時代、社会学とメディア論を専攻したので、にわか社会学者のつもりでいる。だからこそ、株というものには、なんだか身構えてしまうのだ。

社会学とは社会を批判する学問だ。だから、今の社会全体を支配しているシステムである資本主義は当然批判対象となる。たとえマルクス主義に直接影響を受けていない分野の学者でも、手放しで資本主義を肯定したりはしないはずだ。

社会学者が株を買ったりするのは、自分自身が資本家になることを意味する。それはつまり、批判対象である資本主義に自らどっぷり参加してしまうことになるのではないか。

だから、自分としては、株に手を出すことには、やっぱり抵抗を感じてしまうのだ。というか倫理的に問題があるような気がしてしまう。社会学者が株をやるというのは、何だか道理に反しているような気がしてしまうのだ。

(といいつつ、ちゃっかりブログにアフィリエイトは設置している。実はこれも最初は資本主義的だから、結構罪悪感を感じた。しかし、広告モデルがあるからこそ、われわれはGoogleやブログなど先端のメディアを無償で利用できるのだし、それにまあ、ささやなかモチベーションも必要ということで…)

■株をやるメリット

友達の意見は「大学の先生なんだったらちょっとやめた方がいいかもね」というものだった。やっぱりそうなのか…。

しかし、ここであえて反論を考えてみたい。社会学者だって株をやっていいのだと。

私が以前勤めていた会社で、株でそこそこ儲けて、得た利益でPSPとか娯楽品をちょくちょく買っている人がいた。その人は株を始めてから世界経済の動向を必死で勉強するようになったという。やはり自分の金がかかっていると思うと、勉強も真剣になるのだ。

それに、株をやると資本主義経済を内部から知ることができる。社会学の研究方法で言う、「参与観察」というやつだ。実際に外から観察するだけでなく、内部に入って観察した方がより多くのことが分かるというものだ。

加えて、何か社会的に有益な活動を行うベンチャー企業などに投資して、間接的に社会貢献をするということもできる。社会学の究極的な目的は言うまでもなくよりよい社会を構築することなのだから、社会貢献している企業をバックアップすることは何ら道理に違反するものではないはずだ。

以上のような理由から、社会学者も株はやってよい。たぶん。まあ、私はまだやるつもりはないのだけど。

実際のところ、世の社会学者は株をやっているのか、やっていないのか?誰か知ってる人いないものだろうか…



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ラベル:社会学
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久々にテレビドラマというものを見た―TBS「流星の絆」

■テレビも結構おもしろいじゃん

外で夕飯を食べてから家に帰り、新聞を広げると、テレビ欄の「流星の絆」というドラマのタイトルが目に入った。

★流星の絆

私は毎日のように本屋へ行く活字中毒(というか本屋中毒)の人間なので、当然、東野圭吾原作の『流星の絆』の存在は知っていた。

ひさかたテレビドラマなんて見ていなかったので(というかテレビ自体まったく見ていない)、ちょっと見てみることにした。

今日は2話目だったようだが、もともと犯罪小説なのだから、話の筋はすぐに分かった。二宮和也、錦戸亮、戸田恵梨香の3人が兄妹で、幼い時に両親を何者かに殺害され、その犯人を追うというものだ。

よくもまあこんなに視覚的に綺麗な人間がぐりぐり動くなあと、それだけで結構面白かった。昔は1クールのドラマの3分の2くらいは見ていた人間なのに。いったい私にとってテレビはいつから「非日常」になったのだろう。

見始めて10分くらいでいきなり画面が切り替わりCMが映った。CMが入ることなんて当たり前のことなのに、何だか暴力的な感じがした。この時間が無駄なんだよなと思った。

本や雑誌でも持ってきて読もうかと思ったがやめた。最近の市場動向を調査する。そんな目的を持てばCM視聴も面白いと思いなおした。

1話見終えて、ああ、やっぱりドラマも面白いものだなと思った。

中盤の要潤が代官山のハヤシライスを拳でつぶすシーンとか、「コミカルさを出してますよ」系の演出が中途半端な感じがして鼻についたが、それ以外はとても面白く観れた。(こういう演出も視聴者を1時間飽きさせないため必要なんですよね)

最近ビジネス書や教養書しか読んでいなかったので、こういうドラマなんかを見ると、改めて人間には「物語」が必要なんだなあと思う。

物語で他人の人生を疑似体験することで、人は、停滞した日常生活にいくらか新鮮な空気を吹き込ませることができるのだ。

物語の恩恵を受けるのであれば、無論ドラマでなくても小説や映画でもいい。私もそれらの方が好きだ。しかし、これはよく言われていることだが、ドラマには、まるで視聴者がドラマの登場人物の中に入って一緒に会話しているような錯覚を抱かせる。

つまり、孤独を癒す装置としても機能するメディアなのだ。

そんなこんなで、先週から連れが海外に行っていて、ほとんど誰とも会わず過ごしていた私にとっては、今回のドラマはちょうどいい慰めにもなったのだった。

また来週も見ようっと。



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ラベル:ドラマ
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2008年10月22日

感情と空気を呼び起こす写真

■撮影者の心をうつす写真

先日大学時代の知り合いの写真展に行ってきた。街の風景や市井の人々の写真が壁一面に貼られていた。交差点、団地、エスカレーターなど、撮っている対象自体は日常的に見かける普通のものばかりだ。しかし、1枚1枚がすっと心に入ってきて、あるものは深く刻みつけられ記憶に残った。

写真の持つこのような魅力とはいったい何なのだろう?対象自体はごくありふれたものなのに、なぜある種の写真は深く心に残るのだろうか。

ひとつは、写真とは撮影者の心を反映するものだからだ。ごくありふれた光景でも、(時間的にも空間的にも)「どの部分を切り取るか」に、撮影者の興味関心が反映される。

例えば、通勤途中の見飽きた新宿の風景も、晴れた日に高層ビル群が朝日を浴びて輝いている様を綺麗だなと感じるかもしれない。その光景を写真に撮って切り取ると、その「綺麗だな」という感じ自体も写真に真空パックされるのである。

■静止した世界

写真の魅力は撮影者の感情だけではない。撮影者の心が反映されるということであれば、映画などの映像も同じであろう。写真が映像と決定的に異なるのは、時間的に静止しているという所である。

メディア論では、この写真の持つ時間性に着目されることが多い。本来人間は写真のように完全に静止した世界を捉えることはできない。だから写真とは本来の人間にはありえない「異常な世界」なのだ。だから、そこには本来見えないはずの得体の知れないものが切り取られる可能性がある。

例えば、何気ない家族の風景を撮影したとして、メインの被写体として撮った子供の後ろにいた母親のほんのわずかな視線の落とし方、口元の歪み、手の位置などから、何か不気味な感情の存在を感じてしまうかもしれない。

■感情と空気を呼び起こす写真

しかし、そのような「不気味な感情」を切り取る可能性があるということは、当然、その反対の、もっと肯定的で美しい感情を切り取ることも写真にはできる。

私は大学時代にあるNPOに参加していて、国際交流を目的としたイベントの企画に携わっていた。イベントの一環で、真夏の茨城にキャンプに行ったことがあった。その時、今ある雑誌でフォトエディターをやっている一人の写真家が同行していた。

目つきが鋭く無骨な印象を与えるその写真家は、いつも黒のTシャツにハーフパンツという出立ちで、手には常に一眼レフのカメラを持っていた。

その写真家はスタッフや参加者の何気ない光景を次々に撮影していた。縦横無尽に動き回り、時に撮る相手と話をしたりしながら、今その瞬間を切り取っていく。写真家にとってはコミュニケーション能力も非常に大切なのだなと思った。

イベントが終わってから、その写真家から、撮影した写真を見せてもらった。1枚1枚が、素敵な写真だった。1枚1枚が、もしその時を逃してしまっていたら、永遠に失われてしまっていたかもしれない貴い瞬間を写しだしていた。

何気ない微笑み、何気ない驚き、何気ない寂しさ。それらは、真夏の8月の日差しの中、必死に仕事をするスタッフやイベントを楽しむ参加者の「感情と空気」を凝縮させて存在していた。

写真とは、その瞬間に含まれていた人間の感情、自然の美しさ、そしてその場所全体が生む空気のようなものすべてを、凝縮して1枚の紙に焼きつけるものだ。

良い写真は、実際の人間の経験よりも、凝縮された形で世界を保存する。だからこそ、ある種の素晴らしい写真は、見た人の記憶に深く刻み込まれ、自分の記憶以上に鮮やかに世界を残す。

私は今でもその真夏のイベントを思い出す際に、その写真家の撮った写真を思い出す。彼の撮った写真を思い出すと、その周りの様々な経験やイメージが呼び起こされる。

私は彼の写真を頼りにして、今はもう存在しないあの時間を思い出しているのである。
ラベル:写真
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2008年10月20日

【速報】東浩紀の10時間シンポジウムに行ってきた

■怒涛の10時間連続シンポ

今日は、早稲田文学主催の10時間シンポジウムに行ってきた。

早稲田文学主催「10時間連続公開シンポジウム」に東浩紀、宇野常寛、佐々木敦ら参加 - CINRA.NET

連れが先週から仕事で海外に行っていたので、調子に乗って朝から晩までフル参加してしまった。疲れはしたが、途中で退屈することがほとんどない刺激的な内容だった。

パネラーには、文芸評論家を中心に多数の著名人が参加していた。特に有名所で言うと、福田和也、渡部直巳、大澤真幸、観客席には川上未映子が参加していた。そして夕方のエクストラステージにはなんと特別ゲストとして阿部和重まで来ていた。

■業界リーダーとしての東浩紀

しかし、このような錚々たる顔ぶれの中でも、やはり東浩紀氏が一番に目立っていた。(全プログラム参加という人間離れした苦行をしていたということもあるが)ほとんど「東浩紀10時間耐久シンポ」という感じだった。

私は、東氏の本は『動物化するポストモダン』と『自由を考える』(大澤真幸氏との共著)しか読んだことがなかったのだが、今回のシンポで一発でファンになった。

私は曲がりなりにも一般企業での社会人経験があるため、こういう大学院を出て、そのまま先生や評論家になってしまった人たちに、ある種の偏見を持っている。自分がやりたいことを、一部の狭い空間の中だけで完結して楽しんでいる、内輪な感じの人たちと。

自分も本当はそういう人間なので、「自分たちが楽しければいいじゃないか!」というスタンスも分からなくはない。

しかし、できるだけ多くの人を相手に本当はやりたくないこと、村上春樹風に言えば「文化的雪かき」を頑張ってやっている人たちをたくさん見てきた人間としては、「それはちょっと勝手すぎるんじゃないの?」と思ってしまったりもするのだ。

しかし、東氏は違った。東氏は、社会における批評家としての自覚を強く持っていた。もともと批評なんてそんなに必要とされないという現実を認めつつ、その中でどうすれば批評を活性化していけるのか。要するにビジネスの観点で批評界を引っ張っていこうというスタンスを持った人だった。

これは東氏の活動を知っている人にとっては、周知の事実だったのであろうが、私にとっては驚きで、単純に、とてもカッコイイと思った。

佐々木敦氏から「成功と自己実現のために批評をやっている」と指摘され、「成功と自己実現がなくて人はものを書きますかね?」とズバッと反論した所もカッコよかった。

文学や批評というものは、社会批判の側面を持っているから、どうしても「金儲け」を忌み嫌いがちだ。しかし、様々な綻びを出しながらも、今現在資本主義に代わるシステムは存在しないわけで、その中で批評の存続に危機感を抱き、業界全体を市場的にも活性化させていこうという姿勢には感銘を受けた。

■文学にもボーダーレス化の波が?

この「売るか売らないか」という問題は全体のテーマでもあって、文芸誌はもっと部数を伸ばすべきか、文芸批評はなぜ大衆小説を取り上げないのかなど、興味深い議論が展開された。

これともう一つのテーマが「インターネットと文学」だった。文芸批評は昨今のブログ、ケータイ小説、amazonレビュー、ニコニコ動画などをどのように扱えばいいのかという議論は面白かった。これまでの文学や文芸批評が持っていた境界線が崩れ始め、そのあり方が問い直されているという認識を得た。

今世界経済のボーダーレス化が進んでいると言われているが、文学にもボーダーレス化の波が押し寄せているのだ。

と、このようなことを考えていてふと思ったのが、文系理系の区別も、そろそろ本格的にボーダーレス化していいんじゃないかと思った。

文芸批評ということもあり、本日のパネリストは(おそらく)全員文系の方々だった。ここに理系の人も入っていたらもっと面白かっただろうにと思った。

ちなみに理系の人としては、『おまえが若者を語るな!』の後藤和智が議論の中には出てきた。後藤氏は東氏のような批評を「データによる実証性がない」と批判したが、これに関しては総すかんだった。

 ・東氏「もともとフランス現代思想から入ってるのに社会学的に実証性がないと言われても困る」

 ・大澤氏「データなんかでは100%の事実なんか救えない。参考程度でしかない」

 ・福田氏「内面で解釈をせず、外部のデータに依存した文章は作品として弱い」

など確かにごもっとも。私も『おまえが若者を語るな!』に関してはまだ思う所があって、自然現象とは異なる、内面を持った人間の集合である社会をデータだけで語ろうとするのは無理があると思う。これはまた別に考えたいと思う。

さて、最後に筋としてしっかり付け加えておきたいのだが、今回の10時間シンポ、これだけ豪華なメンツでなんと入場無料だった。それだけに会場は若い人を中心にほぼ満員状態だった。

はっきり言ってこの内容だったら、数千円〜一万円してもいい価値だと思う。これだけ充実したシンポジウムを無料で開催してくれた早稲田文学の宣伝(リンクはアソシエイトです、はい。)をして終わりたい。

早稲田文学1
早稲田文学1

早稲田文学編集室

※ちなみに今回のシンポジウムの模様は2008年11月末〜12月に刊行予定の「早稲田文学2」に掲載予定とのこと。




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ラベル:東浩紀
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2008年10月19日

血液型コミュニケーションの悲しみ

■血液型本の変化

少し前に血液型の本がすこぶる売れていた。それまでの血液型の本は、血液型別に性格や行動の特徴を述べ、それに対する簡単な対処法などを述べたものが多かった。(B型の人はワガママなので、なるべくマイペースでできる仕事を任せましょうなど)

しかし最近売れていた血液型の本は、血液型別に見られる一般的な特徴を独特なイラストと一緒に列挙していくだけという、いわゆる「あるあるネタ」と呼ばれる代物だった。

つまり旧式の血液型本は、血液型によって生じる性格の違いを認識した上でコミュニケーションを図ろうとする書物であったのに対し、新しい血液型本はただ単に血液型に見られる特徴を列挙し、ステレオタイプを再生産しているだけに見えてしまうのだ。

■私が血液型性格診断に反対する理由

ちなみに私自身は血液型の話には至って懐疑的である。というか血液型の話は嫌いだ。飲み会とかで血液型の話になるとうんざりする。血液型の話をしている時のあの俗っぽさといったら何なのだろう?新作を出す度にCDのみとDVD付の2パターンをファンに両方買わせようとする大衆ミュージシャンと同じくらい見ていてウンザリする。

私が血液型性格診断に反対する理由は2つある。まず一つは、あらゆる人間は、本来多様な人格を併せ持つものだからだ。どんな人間だって神経質な所はあるし、頑固な所はあるし、大ざっぱな所はあるのだ。安直な血液型による性格判断は、本来複雑で多様なはずの人間理解を浅はかなものにしてしまう。

もう一つは血液型がもっぱらマイナスのレッテル貼りに利用されることが多いからだ。テレビのワイドショーではB型の夫、B型の部下などが取り上げられ、そのワガママぶり、頑固ぶり、幼稚ぶりなど、見ていて吐き気のするようなステレオタイプを次々に垂れ流している。そして「B型男と結婚するなんて大変ねえ」なんて言うようになる。

■人はなぜ血液型の話を好むのか

そもそも人はなぜ血液型による性格診断を好むのだろうか?私の考えだと、それはコミュニケーションツールとしてそれなりに有用だからなのではないかと思う。他人が理解できないという経験は誰にでもある。人は他人と接する時に、大小様々なすれ違い、食い違いを経験する。

自分と他人との埋められない深い溝。どれだけ理解しようにも理解できない不可解な存在。自己にとって他者とは内に何を秘めているのか分からない、得体の知れない怪物なのである。

だから人は安直な血液型分類で自分とは違う他者を「わかったつもり」になろうとする。理解不能な行動をする人間をの血液型を知ることで、「だからか」と安心するのである。

血液型分類とは、他者とのコミュニケーションに不安を抱く者の悲しい性の現れなのである。しかし、この傾向も、昨今売れた血液型の本では影をひそめてきている気がする。血液型分類は、コミュニケーションツールというより、「あるあるネタ」で嘲笑するだけの対象になってしまった。

それはつまるところ、血液型によって人それぞれなんだとドライに認めるようになったのか、あるいは血液型差別にいっそう拍車がかかっているのか…、今の私には分からない。
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2008年10月15日

私がバラバラにならないように―携帯電話考A

■流動化する社会

前回の記事で、携帯電話は「心の常時接続可能状態」をもたらし、そのため接続が遮断されることに必要以上に恐怖を抱きやすいということを述べた。我ながら反技術的な意見だなと思う。そこで今回はバランスを取るために、携帯電話のプラスの側面を取り上げたいと思う。

現代は、地域社会、家庭、企業などの結び付きが弱まり、流動的な社会になっているとよく言われる。これは誰もが実感していることだろう。生まれ故郷を後にして都会に出てきた若者の孤独、家庭崩壊によって分裂する家族、事業の統廃合やリストラで不安定な職場などなど…

流動的な社会においては、これまで特定の共同体に継続的に所属していた個人がバラバラに存在するようになる。人は、ある特定の共同体(村とか年功序列型企業とか)に所属すれば、それなりに一貫性を保てていた人格(注:本当はもともと人格に一貫性などないのだが)も分裂する。

■増殖する人格

家族といる時の自分、友人(高校、大学サークル、バイトetc)といる時の自分、会社の人たち(転職している人は当然複数社)といる時の自分、ネット上の自分など人格は無尽蔵に増殖していく。

自分のいる場所と時間が目まぐるしく移り変わりゆく社会であるがゆえに、自分の人格も、ザッピングして視聴するテレビ番組の様に次々と切り替わっていく。

よく「やりたいことがみつからない」と言うが当たり前だ。こうも分刻みで切り替わっていく人格の中で、何か特定の行動を起こすに足る「やりたいこと」を見つけることは実は至難の業なのだ。

またビジネスの分野ではよく成功するための秘訣として「目標を紙に書け」ともいう。これも当たり前だ。ある目標に火がついた時の人格なんて数分後には消し飛んでしまうのである。紙にでも書いておかなければ何かを成し遂げたいと思っても、数分後には「そんな自分もいたな」で終わってしまうのである。

■遊牧民のお守りとしてのケータイ

自分がいる場所や集団が流動的になった社会では人格も無尽蔵に分裂していく。そのような社会において携帯電話とはかろうじて個人をある特定の集団につなぎとめ、バラバラになりそうな人格をつなぎとめる「お守り」のようなものなのではないか。

自分の環境(circumstance)が刻一刻と移り変わっても、携帯電話を開けば過去友人と撮った写真が大量に登録されている。たわいのないメールのやりとりも記録されている。そして例え自分がどこに行ったとしても連絡しようと思えばいつでも連絡が取れる。

要するに若い年代を中心に(「若者」という言葉を使うと途端にステレオタイプな感じになるからここでは使わない)ケータイが手放せないというのは、バラバラになりそうな自分をつなぎとめておくためのツールとしてなくてはならないメディアになったからなのだ。



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2008年10月14日

その先にはたくさんの人たちがいるはずなのに―携帯電話考@

■携帯電話によって失われた経験

携帯電話の登場で失われた経験も当然ある。それはコミュニケーションを「待つ」という経験だ。例えば、電話が登場する以前は人々のコミュニケーション手段は専ら手紙であった。手紙という通信手段は電話と比べて遥かに時間がかかる。送ってから返事が来るまで2〜3週間、場合によってはそれ以上時間がかかってもおかしくない。

コミュニケーションにおいて「待つ」という経験が減少すると、顕著に影響が現れるのが「恋愛感情」だ。手紙の場合、恋人への思いを綴った手紙を送ってから返事が届くまでの長い期間が、恋人への恋心を醸成した。

しかし電話の登場によって、相手の声が聞きたいと思ったらすぐに電話をしてその欲求が満たせるようになってしまった。いわゆる「欲求の即時充足」と呼ばれる現象だ。

固定電話から携帯電話への移行の際も人間の経験は一変している。例えば固定電話しかなかった頃は、深夜に恋人に電話するために電話ボックスに順番待ちの列ができていたりしたという。(吉見俊也他『メディアとしての電話』)

また、固定電話は電話をしても相手以外の人間が出る確率が少なからずあった。だから彼女に電話する際は、彼女の父親が出はしないかと恐れたり、逆に一発で彼女が出てくれた際は「ラッキー!」と思ったり。そういう経験も携帯電話の登場で綺麗さっぱり無くなった。

私はテクノフォビア(技術恐怖症)でも、反進歩主義者でもない。むしろ新しいメディアの発達には胸を躍らせることの方が多い。しかしそれでもふと過去を振り返ると、あまりに多くの経験が消えていったことに驚き、「かすかな寂しさ」を感じているだけなのだ。(「郷愁」という言葉を使おうか迷ったが嘘くさいのでやめた)

■携帯電話が与える孤独

話をしたい時に直ぐにその欲求を満たせるということは、言い換えれば、いつでも「つながる」ことが可能な状態ということだ。更に換言すれば「心の常時接続可能状態」と言えるかもしれない。(「心の常時接続」という言葉自体は大学時代にあるメディア論専門の教授から学んだ。)

「心の常時接続可能状態」とは、今手に入している携帯電話を介して無数の家族、友人、恋人(あるいは会社や顧客)といつでも「接続」しうる状態を指す。電話帳を開き、目当ての人の名前を選択し、ボタンを押す。それだけでいつでもどこでも「つながる」ことができるのである。

この状態は、逆に「接続」が遮断されてしまった場合(あるいは遮断されていると感じた場合)に深刻なダメージを人々に与える。携帯電話を見つめながら「誰からも連絡が来ないな」と一抹の孤独感を味わったことは誰にでもあるはずだ。2〜3回ボタンを押せば直ぐに電話がかけられるにも関わらず連絡が来ないという感覚は、都会においては時に耐えがたい「存在の軽さ」をもたらすことがある。

私自身はかなり自己完結している人間なので、携帯電話は、正直鬱陶しく思うことの方が多い。自分からかけることもほとんどないし、たまにかかってくると、それまで熱中していたことが中断させられたりして腹を立てたりする。(寂しい人間だ)

しかしその一方で携帯電話がもたらす「存在の軽さ」に本当に耐えられない人もいる。現にあの秋葉原事件の容疑者は、携帯サイトでの書き込みを無視されたこと絶望し、内に歪んだ憎悪を抱いたのではなかったか。

「心の常時接続状態」は「つながっている」という安心(見せかけの?)と同時に、「つながっていない」という深刻な孤独感、疎外感ももたらす。我々は目まぐるしいスピードで発達しているネットワーク社内の中で、「そんなにいつもつながっている必要はないんだ」「人間は所詮ひとりなんだ」という当たり前の事を再認識する必要がある。



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ラベル:携帯電話
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2008年10月13日

見えない敵を恐れる住民―ゲーテッド・コミュニティ

■日本に台頭するゲーテッド・コミュニティ

本日の朝日新聞朝刊1面の「囲われた街 買う安心」で日本初の「ゲーテッド・コミュニティー(要塞の街)」が取り上げられていた。

「兵庫県芦屋市の浜辺にあるベルポート芦屋。マリーナを備えたこの住宅地は、日本初とされるゲーテッド・コミュニティー(要塞の街)だ。敷地は甲子園球場のグラウンドの1.5倍。外周は高さ約2mのフェンスと赤外線センサー、監視カメラ数十代に守られ、正面ゲートの脇では数人の警備員が24時間態勢で目を光らせている。」(朝日新聞2008年10月13日朝刊)

ベルポート芦屋の他にゲーテッド型住居として紹介されているのは以下。

広尾ガーデンフォレスト
マスタービューレジデンス
グローリオ芦花公園

上記リンクの通り、ゲーテッド型住居のターゲットは主に富裕層だが、
中にはマザーヴィレッジ岐阜の様に中流階級向けの住居もあるという。

■ゲーテッド・コミュニティと格差

朝日新聞がなぜ1面でゲーテッド・コミュニティなどを取り上げるのだろうか。紙面では、「周辺地域との隔絶」、「格差の当然視」などが問題とされていた。「格差の当然視」というのは、早大教授の齋藤純一氏の見解で、ゲーテッド型住居の台頭は、「効率を優先し、格差拡大を当然視する現代日本の象徴的な変化」だという。

つまり、朝日はネオリベラリズムに端を発する格差拡大に批判的なので、今回の特集もその意向を反映してのものだろう。そのせいか全体的にゲーテッド・コミュニティに対する批判的なムードが記事から漂っている。

区画全体をフェンスで囲い、内部を無数の監視カメラで監視となると、確かに周辺住民から見れば異様な、不気味な光景であろう。しかし、私はそういう、周辺から隔絶されてでも安全な家に住みたくなる人の気持ちも分からなくはないなと思っている。

■メディアが煽る「不安」

私たちはメディアを通して日々世界中の人たちの「死の運命」を目撃している。犯罪や交通事故のニュースを見るたびに「自分ではなくてよかった」と安堵すると同時に、「次は自分なのではないか」という死神からの視線に怯えているのである。

実はメディアによる事件事故の報道はそれ自体過剰になると、必要以上に視聴者の恐怖心を煽るとして問題視する意見もある。例えばマスコミ研究の分野でガーブナーは、テレビ番組の暴力シーンを継続的に視聴することで、視聴者の社会認識が「培養」され、社会に対する危険度の認識が高まることを指摘した。(吉見俊也『メディア文化論』など)

つまり、ゲーテッド・コミュニティの様な心配症な富裕層向けの住居の需要が高まるのも、テレビや新聞をはじめとしたマスメディアの過剰報道が原因とも言えるのだ。ゲーテッド・コミュニティの住民はマスコミが煽る見えない敵の存在に怯え、せめてもの心の安堵を手に入れるためにその豊かな資産で安心を買っているわけだ。

■そして完全なる監視社会へ

毎日のように「人の死の運命」のシャワーを浴び続けている今のメディア環境は、やはり異常なのではないかと思う。私自身は「なんでみんな平気な顔して生きていられるんだ?」と周囲の人間に対して思ったことがあるが、みんな内心「見えない敵」に怯えているのである。

それではマスコミから事件事故の報道を一切排除すればいいのかというと、それはそれで問題になる。マスコミの過剰報道は問題だが、取り上げている事件事故自体は、この同じ空の下で現実に起こっている出来事だからである。

結局我々はこれからも「見えない敵」の恐怖を少しでも和らげるため、企業が提供する「安心プラン」に金を払い続ける。そして最終的に我々は安心と引き換えに国家や企業による徹底的な監視と管理を何の懸念もなく受け入れるようになるだろう。映画マトリックスの機械に支配された世界を彷彿とする完全なる監視・管理社会が台頭するのである。


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