2008年10月10日

10月の晴れた昼下がりに新宿のカフェにて

■知的レベルの異なるカップル

昨日新宿のカフェで本を読んでいたら、二つ隣りの席に若い男女が座った。話しぶりから言ってつき合う一歩手前のカップルという感じだった。平日の午後なのでおそらく大学生か専門学校生だろう。私は二人の話を聞くともなく聞いていた。

人の話というのは、全く関係のない第三者が聞くと本当にくだらなくことのように思える時がある。血液型がどうとか、あいのりがどうとか。自分が当事者だとその場をやり過ごすために話さざるを得なくなるのだが。

その二人の場合はちょっと違って女性の方が何やら人間関係に関するヘビーな相談事を持ちかけているようだった。はっきり言って知的レベルは女性の方が高そうだった。それに対して男の方は中身がなさそうで、意味のある返答もできず相槌を打つばかりだった。

■中身のなさそうな男がんばる

その内に男の方が「俺の知り合いの社長がさあ」とか「どこどこ大学の経済学部出身の友達がさあ」とかやたら「俺にはステータスの高い知り合いがたくさんいますよ系」の話をしだした。いるいるこういうのと思ってしまった。

なんで男というのは知り合いを引き合いに出してまで自分に箔をつけようとするのだろうか。「そんなすごい人と知り合いなんだ〜」とでも言ってほしいのだろうか。仮にそう言ってくれる女性がいたとしても、内心はそんな男の底の浅さなんて当然見抜いていて幻滅しているのである。

こんなことを連れに話すと「いるよね、そういう男って」と同意見。しかし「まあ女の子にも本当におバカな子はいるけどね」と。二人しておバカだったら、そこでループが出来て自己完結してそれはそれでめでたいことなのかもしれない。

私は「無理して格好つけなくてもいいのに」と思ってしまう。世の女性がみんな「そんな背伸びしているタクヤ(仮名)がカッコイイ」なんて思ってくれるはずないのだ。何事も自然が一番だとつくづく思う。


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2008年10月09日

iPodとポッキーの類似性について

■新型iPod発売

先日新型iPodが発売された。今回の目玉は何といってもnanoだろう。新しく加速度センサーが内蔵されて、縦長の長方形の形をしたnanoを横に傾けると自動的に画面も横向きに切り替わり、Cover Flowが表示される。

新しい技術というわけではないのに、いちいちボタンを押すことなく本体を傾けるだけで反応するスムースさは、やっぱり気持ちいい。新宿のビックカメラで実際に手にしてみると「おお!」と思ってしまった。

しかし…私はちょっと買おうという気にまではならなかった。(いやまあ、お金に余裕があれば買ってもいいんだけど)加速度センサーも魅力的ではあるのだが、所詮マイナーチェンジに過ぎない。大容量の記憶領域に大量の楽曲をインポートして、クリックホイールで自由に曲を選んで聴くというiPodの本質的な部分は初代iPodでもう完成されているのだ。

■iPodの革新性

初代iPodは正真正銘の革命的な音楽プレーヤーだった。人間と音楽の関係を根本的に変えたと言っても過言ではない。それまでの音楽再生機は、MDに代表されるように、長くてもアルバム1枚分程度の単位で楽曲を管理していた。リスナーは良かれ悪かれ、MD1枚単位の視聴に制限(あるいは支配)されていたのだ。

このリスナーの拘束を解き放ったのがiPodだ。(アップルはいつも支配からの解放というイメージを作るのがうまい)リスナーはもうメディアの単位に縛られることなく、自分の持っているCDをほとんどすべてiPodに記録して持ち歩けるようになった。

インターフェースの影響も大きい。ご存知の通りiPodは「クリックホイール」と呼ばれる独特の円形のインターフェースを装備している。リスナーはそれまでのMDプレーヤーのように煩わしいボタン操作を経ることなく、クリックホイールをくるくると回せば聞きたい楽曲にすぐに辿り着くことができる。

これは革命的な変化だ。iPodの登場でリスナーは地球上のどこにいても、自分の持っている楽曲のほぼすべてにアクセス可能になったのだ。ここで私自身の、iPodによる音楽の聴き方の変化をいくつか列挙してみる。

・アルバム単位ではなく楽曲単位で曲を聴くようになった。
・その時の気分で聴く曲を変えるようになった。
・普段聞かないようなジャンルの曲まで聴くようになった。
・聴くためというより、記録曲数を増やして自分のライブラリを
 充実させるためにCDを買う・借りることもでてきた。

などなど、他にもありそうだが、iPodによる音楽視聴の変化の多様性を知るには何といっても「ほぼ日」の特集ページが秀逸だ。

★iPodであそぼう。

■iPodとポッキーの類似性

これを読むと、本当にiPodは人間と音楽の関係を変えたと言っても過言ではないと思える。それは例えて言えばポッキーの登場にも似ている。ポッキーはプレッツェルの周りにチョコをコーティングすることで、手に持って食べようとすると手が汚れて食べにくいというチョコの特製を克服した。ポッキーはチョコレートの制限から人間を解放し、チョコと人間の関係を変えたのだ。(おおげさかもしれないが)

この観点から今回の新型iPodを見ると、「ムースポッキーの新しい味」が出た程度のインパクトしかない。(いやそれでも食べたいことは食べたいのだが)ポッキーのポッキーたる所以が初代ポッキーの時に既に確立されていたように、iPodは初代iPodの時に既に完成されてしまっていたのだ。

それにしても、ここまで書いてきて1点気になった点がある。それはiPodに対して「リスナー」という単語を使うことが、何だかそぐわない感じがしたのだ。どちらかというと「ユーザー」という言葉がぴったりなのかもしれない。これはiPodによって単に音楽を「聴く」というよりも、音楽をコンピューター管理して「利用する」というような形式に移行しているということなのかもしれない。

これについて村上春樹が興味深いことを書いている。

「今では多くのランナーはiPodを聴きながら走っているが、僕は使い慣れたMDの方が好きだ。iPodに比べればいささか機械が大きいし、情報の容量は格段に少ないが、僕にはじゅうぶん事足りる。今のところは僕はまだ、音楽とコンピューターをからめたくはない。友情や仕事とセックスをからめないのと同じように」
(村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』P.28)


iPodは音楽を聴くという行為に新しくコンピューターを介入させた。それは、チョコレートに新しくプレッツェルを介入させたポッキーにも似ている。チョコレート好きの人の中には「俺はプレッツェルが嫌いだ。チョコの味だけを楽しみたい」という人だって当然いるだろう。

新しい技術の登場は、往々にしてそれ以前の技術を愛する人たちを「考え方が古い人たち」と見なしがちだ。しかしそれは間違っている。古い技術を愛する人たちは、案外「チョコレートだけを楽しみたいんだよ」と言っているだけなのではないか。そこにまたひとつ、技術の発達によって失われてしまう経験が隠されている。(まあ私はチョコだけもポッキーも好きなのだが)



タグ:ipod ポッキー
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2008年10月07日

また少年に戻る時が来た―エヴァンゲリオン「破」公開時期決定

■エヴァンゲリオン新劇場版:破 2009年初夏公開

ヱヴァンゲリヲン新劇場版ブログ:破

昨年秋の衝撃が再び戻ってくる。エヴァンゲリオン新劇場版の第2段「破」の公開時期が2009年初夏と告知された。

私は前作の「序」でエヴァを初めてきちんと観たのだが、観終わった後に、まるで良質な文学を読んだ後のような「心の傷」を受けて、しばらくその余韻(後遺症ともいう)に浸ったのだった。

「序」よりも前に何回かTVシリーズをかいつまんで見たこともあったのだが、その時は「なんだこりゃ?」という感じだった。ストーリーなんてまるで把握していないのに、なぜか最終回は見ていて、例のラストシーンの印象が強く残っていた。

「序」を観た後はまるで熱にでも浮かされたかのように、テレビ版と(旧)劇場版のDVDを一気に観た。当時私は過剰残業が恒常化しているような職場にいたので、毎日深夜に家に帰って眠い目を擦りながら夢中になって観たのだった。

■世界からの拒絶

エヴァに関するあらゆる言説がネットにあふれている中で、今さら批評をしようという気はさらさらない。今自分がやりたいことは、エヴァによって受けたあの「心の傷」を、なるべく正確に捉えて、文章にすることだけだ。

主人公のシンジは世界と折り合いをつけることができない内向的な中学生だ。人と接することに臆病で、父親から愛を受けられなかったことにコンプレックスを持っている。世界を救うためにエヴァに乗ることに疑問を抱き苦悩し続ける。

しかし、使徒との数々の戦いと、周囲の人々との交流の中で、シンジの心に異変が生じる。シンジは苦悩の末に世界を受け入れることを決意する。ここまでがTV版のストーリーだ。

希望(手垢のついた言葉だが)の片鱗が見えたハッピーエンドで幕を閉じたエヴァは、旧劇場版で真の結末を迎える。使徒量産型との激戦の末発動された人類補完計画の影響で、大切な人たちが失われた世界。世界を受け入れる決意をしたシンジは、激戦の末、誰もいなくなった地球で、「世界」から「拒絶」される所で物語は終わる。

あの瞬間に感じた気持は本当に「心の傷」としか言いようがない。傷と言っても心の奥まで届く相当深い傷だ。命がけの戦いと、人との交流の中で、心の壁(ATフィールド)を解いた先に待っていたものが、世界からの拒絶だなんてあまりにも悲しすぎる。

■また少年に戻る時が来た

思春期とは危機の時代である。子供時代の無垢な世界の幻想が解け、残酷な現実を目の当たりにする。そこでは誰もが世界の前に絶望し、打ちひしがれてしまう。

しかし、大抵の人たちはそんな世界との衝突をいつのまにか克服し、大人になっていく。大人になるということは、思春期に自分を危機的状況に陥れた世界と和解することなのである。

しかし…私たちは本当に残酷な現実を克服したのであろうか。何となく見ないふりをしたり、何も感じないふりをしたりしている内に、なあなあにやり過ごしてきてしまってきただけなのではないか。

エヴァを観ていると、私たちはもう一度あの少年(あるいは少女)時代の「世界との折り合い」という切実な問題に引き戻されていく。

果たしてシンジが「おめでとう!」と皆から祝福された世界は、一瞬の光でしかなかったのであろうか。世界との和解は儚い幻想でしかなかったのか。「破」のオリジナルの展開が待たれる。



posted by Tommy at 21:51| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月06日

メディアが変える経験

■メディアが変える経験

既にお気づきの方もいるかもしれないが、このブログのタイトルにある「メディア論」とは、一般的には社会学の中に含まれるメディア研究を指す。

私は大学時代にメディア論を学んで文字通り世界観が一変し、そこから、日常的なものの見方にもメディア論の影響が出てくるようになった。

メディア論とは恐ろしく簡単に言ってしまえば、メディアが伝達するコンテンツではなく、メディアという形式自体が社会構造や人間の経験を変化させているという立場を表わす。

これはカナダの英文学者マクルーハンが主張したことだ。

★マーシャル・マクルーハン-Wikipedia

例えば、テレビというメディアは、その番組内容よりむしろ、ある情報を一瞬のうちに何千万人という視聴者に発信してしまうという、テレビの形式自体が人間の経験のあり方を大きく変化させているのだということだ。

今では、このようなマクルーハンの主張は、メディアという技術が一方的に社会を構成しているという短絡的な「技術決定論」だと批判されている。しかし、それでも、「メディアによる社会の変化」という視点は現実の重要な一側面を表しているように思える。

■消えゆく経験

メディアが発達すると人間の経験も変化する。これはマクルーハンの主張を示すまでもなく当り前のことだ。しかし、経験が変化するということは、それまでの経験が失われるということでもある。

例えば私は、学生の頃ゲームボーイが大好きだった。ご存知の通り、ゲームボーイというと、単三や単四の電池を入れて遊ぶポケットゲームだ。

ドラクエやポケモンを夢中でやっていると、よく赤のランプが点滅して電池がなくなったものだ。そうすると、家の生活用品がまとめてしまい込んである引出をあけて電池を探す。そこにないと母親にないか聞く。それでもないと近くのスーパーに電池を買いに行くわけである。

早くセーブした所から続きを遊びたい、カイリュー(ポケモンの名前)のレベルを上げたい、とかそんなことを考えながら、電池を買うためだけに家を飛び出して店に走るという経験は今では懐かしい思い出だ。

そんなポケットゲームも今では充電式が当たり前になっている。ニンテンドーDSはランプがオレンジ色になれば充電のサインでコンセントに刺せば2〜3時間で満タンになる。もうゲームの続きを遊ぶために電池を買いに行く必要はなくなったわけだ。

ゲームの続きを思い浮かべながら、いてもたってもいられない気持ちで、電池を買いに走ったあの経験にいったいどんな意味があるのかは分からない。

ただひとつ言えることは、メディアが発達し自分たちの経験が変わるにつれて、例えそれが取るに足らない些細なものであれ、生活の中からある種の経験が消えていくということなのだ。


posted by Tommy at 17:07| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月05日

日記ブログを始めてみた

既に何件かブログを運営しているのだが、今回初めて日記ブログを初めてみた。

これまで日々思ったことや考えたことを、(たいしたことも考えていないのに)ひとつ残らず忘れたくないと思い、ノートやパソコンに書きためてきた。

しかし、せっかく書いても全部自分の中の押入れに閉まっておくのはつまらないなあと思い、ブログにすることにした。

自分の思考の記録と鍛練のため、そして来てくれた人が単純に読んで面白いと思ってくれるために書いていきたいと思う。



タグ:思考 日記
posted by Tommy at 10:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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