2009年07月02日

【book】『ベルカ、吠えないのか?』

■速射砲のような文体で駆け抜ける、イヌたちの数奇な歴史

ベルカ、吠えないのか? (文春文庫)
古川 日出男
4167717727


単行本は2005年4月刊。文庫版には文庫版あとがきとイヌ系図を収録。私は文庫版で初めてこの本を手に取ったのだが、最初のこのイヌ系図を見て「何じゃこりゃ」と思った。日本、アメリカ、ソビエト、中国という4国を股にかけた何世代ものイヌたちの大仰な系図が載っているのだ。タイトルと表紙からイヌの話であることはもちろん予測していたが、まさか本当にイヌ達を主人公にこれだけ壮大な叙事詩を展開するというのか?

実際に読んでみると、まず著者独自の疾走感のある文体に目を奪われる。無駄をいっさい省いた簡潔な文章が速射砲の用に連打されていく。ひたすら一文を長くだらだらと書いていく保坂和志のようなスタイルとは対極的だ。例えば、序盤に登場する北海道犬の「北」が軍用犬の本能を目覚めさせるシーン。北は第二次大戦中に日本軍の軍用犬として任務を果たしたが、その後数奇な運命を経て、アラスカで犬橇競技用のイヌとして才能を発揮する。極寒の地、アラスカでその事件は起こる。

「二月十七日、事件は起きる。その地域で、雪は深い。唐突に、橇が転倒した。イヌたちが悲鳴をあげた。恐ろしいものが現れた。豪雪ゆえの飢餓状態に陥ったヘラジカが、有無を言わさずにイヌたちに踊りかかっていた。横手から、ハーネスに縛られたイヌたちに。ヘラジカは雌で、体重は七七〇キロを越えていた。極限まで飢えて、好戦的になり、野獣だった。リーダー犬が殺され、さらに二頭が殺された。この瞬間、ふたたび北の内部でスイッチが、かちり、と入る。がちり、と押し込まれる。他のイヌたちが逃げ惑うなか、北は目覚めた」(P.49)

映画のワンシーンのような、鳥肌が立ってしまうようなくだりだ。簡潔な文章が連なってはいるのだが、決して大衆迎合的なエンターテイメント作品のような、口当たりがいい文章というわけではない。著者の個性が噴出しているがゆえの、慣れるまで少し時間のかかる、ある種の純文学的な読みにくさのような要素もきちんと含まれている。このような文体は本作のようにアクションシーンの多い作品にこそうってつけなのだろうが、例えばこの文体で普通の恋愛ものなどを書いたらいったいどうなるのだろうか?『LOVE』など、著者の他の作品にも興味が持たれる。

さて、肝心の物語はというと、第二次大戦から冷戦終結までの人間たちの歴史の影で展開されたイヌたちの壮大な叙事詩である。イヌたちは、愚かな人間から、軍用犬、競技犬、ブリーダー犬、テロリストの殺人犬などさまざまな役目負わされる。中盤くらいでタイトルの意味とクライマックスの雰囲気もだいたい予見することができたので、それほどストーリー自体に革新性があるわけではない。しかし、それがまた「エンタテイメントと純文学の幸福なハイブリッド」と言われるゆえんなのかもしれない。(純文学にとっては必ずしもストーリーの革新性は必要ないから)

イヌという、この人類にとって最大のパートナーは、愚かな人間たちの手によって、いかに運命を翻弄されてきたのか。イヌたちは残酷な現実を前にしてどうすることもできない。そして、イヌたちは吠えることをやめて、沈黙するのだ…。

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2009年06月24日

【book】『君は永遠にそいつらより若い』

君は永遠にそいつらより若い (ちくま文庫)
津村 記久子
4480426124


第140回芥川賞を受賞した津村記久子のデビュー作。公務員試験に受かり就職も決まった大学生ホリガイ(22歳処女)の友人たちとのだらだらした日常と、そこに潜む「悪意」を描く。

一読した印象は、「女性版保坂和志」。だらだらした日常をだらだら書いていき、その中のふとした瞬間に人間の深淵を見出すというスタイルは保坂の独壇場だが、本書もいい線行っているのではないか。しかし、保坂の深淵と津村の深淵には明確な方向性の違いがある。保坂和志の深淵が「世界とは」「人間とは」というような哲学的なものであるのに対し、津村の深淵はもっと現実的なものである。例えば、男友達の河北とだらだら飲んでいる時に、河北が自傷癖のある彼女との愛を自己陶酔的に語った。それに不快感を感じたホリガイは『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』の「サリー」という「腕とか足もつぎはぎでつながって」るキャラクターの話を出してひやかす。腹を立てた河北はホリガイにグラスの酒をかける。

「『自分になにも問題がないからって、語れる奴を嫉むな』
 両サイドの客の動きが止まった。店員が見ていたらかわいそうだな、と咄嗟に思ったけれども、さいわい誰も気付かなかったようだ。あるいは観ていて見なかったふりをしただけか。
 語るための痛みじゃないか、それも他人の。
 そう言い返してやりたかった」(P.68)


処女のホリガイには愛という「問題」がない。そのことに少なからずコンプレックスを抱いているであろうホリガイにとって、河北の陶酔的な恋愛話は不愉快極まりないものだったのだろう。あるいは、恋人の自傷を「話のネタ」にする不謹慎さにも腹を立てたのかもしれない。河北の配慮が足りなかったのはもちろん、ホリガイにも配慮が不足していた。両者ともに「悪意」を持っていた。

保坂がある種の形而上的な深淵を描くのに対して、津村は「悪意」「暴力」「哀しみ」などもっと現実的な人間の深淵を描く。私は思想が好きなので、どちらかといえば形而上的な深淵の方が面白みを感じるので、津村には少し物足りなさを感じるのだが、それでもこのような惰性的な日常の中の一瞬の裂け目を描く力は素晴らしいと思う。

少しネタばれになるが、読み進めていくとホリガイが実は極めて「倫理的」な人間であることが明らかになる。ホリガイは「ある事件」をきっかけに、児童福祉司になることを決める。そのある事件とは、実はホリガイ自身に起きたことではなくテレビで見た子供の誘拐事件なのだ。注意深く読んで見ると、自分の人生には「何もない」ホリガイが、実はメディアの情報から決定的な影響を受けて人生を選択しようとしているという、メディア論的な読みもできなくはない。

ホリガイにとってメディアの世界が重要な位置を占めていることは物語の随所に現れている。その中でも冒頭の「グラビアの切り抜きの世界」は注目に値する。ホリガイは女性アイドルの切り抜きを枕もとの襖に貼りつけるレズビアン的(こういう言葉を使うと途端に陳腐になるが)な趣味を持っている。

 「計算され尽くした微笑を浮かべながら、無防備にからだをさらしている彼女たちをみていると、なんだかぼんやりと、心を撫でられたような気分になるのだった。これをとりまく世界はとてもちゃんとしている、整然としている、と強く思っていた。女の子たちとそれを売る人たちとそれをみる人たちの簡潔な相関図があり、それは、かれらの間でどんな感情の駆け引きがあるにしろ、とてもゆるぎないもののようにわたしには思えていた。現実はそんなものではなくもっと流動的で、頭の硬いわたしにはとても疲れるものだということを、わたし自身がどこかで拒みたい気持ちが、そういった行動の根拠にはあったのかもしれない」(P.13〜14)

ホリガイはグラビアというメディアの世界に、現実にはない「ゆるぎないもの」を見出している。しかし、そのホリガイが流動的で、何が起こるか分からない、悪意に満ちた現実を見るのもまたテレビというメディアであった。人間の世界観の形成や人生選択といった領域にまでメディアの媒介が介入してきているということ。このことは、映画や音楽やテレビゲームが大好きなホリガイと同じように、「メディア人間」である我々にとっては当然のことなのかもしれない。

posted by Tommy at 23:22| Comment(0) | 本(文学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月07日

【book】『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』本谷有希子

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)
本谷 有希子
4062757419


単行本は2005年7月刊。私にとって初めての本谷有希子作品。私は、読んだことのない著者の小説を初めて読む際は、かなり斜に構えて読むようにしている。つまり、その著者が本当に信頼するに足りるかどうか評価しながら読むのだ。今日、小説なんて吐いて捨てるほど出版されているのだし、小説以外にも物語の楽しさを経験できるメディアなんていくらでもあるのだから、つまらない小説に費やせる時間などないのだ。

その一方で、本当に信頼に足りる作家を見つけることが出来たら、今度はその作家の作品は全部読もうとする。気に入った作家の小説を読むことは、人生の中でも5本の指に入るくらいの至福なひとときだし、単に楽しめるだけではなく、人生に関する深い洞察や新しい世界観を得ることもできる。そして何より、「気に入る」ということは、自分の内面と何らかの関係を持っているということであり、そういう作家の作品を読むことは、自己省察にもつながるのだ。

では「信頼に足りる作家」とはどういう基準で判断すればよいのだろうか。私の場合は、小説はほとんど純文学しか読まないので、その際の判断基準は、桑原武夫の『文学入門』の影響が大きい。桑原は優れた文学の条件として次の3点を挙げている。

文学入門 改版 (岩波新書 青版 34)
桑原 武夫
4004140013


@新しいこと
A誠実であること
B明快であること

私の場合、Bは特に重視しないが、@とAはかなり重要な判断基準になっている。@は単純な意味で内容が新鮮であることはもちろん、もっと深い意味としては「芸術的」であることを意味する。芸術とは、常識的なものの見方に揺さぶりをかけて、新しい世界観を提供するものである。Aは、作者が心を魅かれた対象に対して誠実であることを意味する。作者が感動した対象に誠実に接していなければ、読者はそのような作者の感動を追体験できなくなってしまうのだ。


このような意味で、私は本作品で幸運にもまた1人「信頼に足りる作家」を見つけることができた。本作品は、地方の過疎化した村を舞台に、女優志望で自意識過剰な姉・澄伽(すみか)と、そんな姉を嘲笑と反抗の眼差しで見つめる妹・清深(きよみ)との、壮絶な家庭内暴力を、物語の1つの軸として展開する。

澄伽は自分に女優の才能があることを信じて疑わないのだが、家族や周囲の人間はそのような澄伽を冷ややかに見つめる。客観的に見ると才能がないのは明らかなのに、澄伽はそれを認めようとしない。それを認めてしまえば、澄伽は完全に自分というものを失ってしまうからだ。ここに現代人特有の、アイデンティティー・クライシスに苛まれる人間の、精神の危機が現れている。

俳優に限らず、タレント、ミュージシャン、マンガ家など、「芸能」を志す、いわゆる「夢追い人」は、客観的に見て才能があれば問題はないのだが(ちなみに私は才能は後天的に養成されるものだと考えているが)、そうでない場合は、なんと周囲から見て「もの悲しい」ものなのだろうか。早く目をさましなよと言ってやりたいのはやまやまなのだが、それでは当人の夢を壊すことになってしまう。しかし、まったく己を客観視せず、ひたすら夢を追うという、その「純粋さ」「無邪気さ」「盲目さ」に、悲しみを、苛立ちを感じずにはいられない。

本作品は、このような自意識過剰で己を客観視できない「イタい」夢追い人の「もの悲しさ」を巧みに描いている。物語の前半で、澄伽は、ある映画監督の小林哲生と文通を始め、その手紙の中で次のように書いている。ちなみに、澄伽は舞台女優でほそぼそと活動したことがあり、また哲生は撮影中の映画の主役の女性を探しているという流れ。

「そういえば、こないだまだ決まらないと言っていたヒロインの候補は思い付きましたか?折角の大きな企画なんだから、イメージ通りの女優さんが見つかるといいですね。演技力と色気のある美人……。うーん、確かに哲生さんの言う通り、顔がきれいで本当に演技が上手い女優って最近少ないと思います。参考になるかどうか分からないですけど、もし煮詰まってるなら、映画方面だけじゃなく舞台中心にやってる女優さんなども探してみたらどうですか?もしかして意外といい人がいるかもしれませんよ。みんなが見逃しているダイヤの原石が(笑)」(P.66)

イタタタタ……、という感じである。こういう人を見ていると本当に「悲しく」なってくる。しかしそれはあくまで第三者の場合であって、身内であればこの作品の妹・清深のように「苛立ち」の感情も芽生えてくるのだろう。しかし、清深の内面はそのような苛立ちに留まることなく異様な形に変容していってしまう。それは「愚かな姉の姿を多くの人間に知らしめたい」という欲望だ。(この欲望がきっかけで、澄伽の清深への壮絶な暴力が展開される。)この特殊な欲望にも「新鮮さ」を感じた。女優志望で自意識過剰な姉、そんな姉を客観視してその愚かさを人に知らしめたい妹。恐らく、この姉と妹を足して2で割ったのが作者自身なのではないか。(まあ純文学なのだから当たり前か)

ただこの2人の軸が秀逸だった分、物語の後半で、澄伽の腹違いの兄やその嫁の半生のエピソードが出てきたときは、少し唐突な感じがした。この2人のエピソードが入ることで、途端に安っぽい群像劇のような印象を少なからず受けてしまったのが惜しかった。しかし、作者は演劇の監督もやっているというのだからこういう群像劇的な書き方になるのも無理はないのかもしれない。しかしそれを差し引いても、主人公の姉妹の物語は、私に新鮮で追体験可能な人間観・世界観を与えてくれた。今後も本谷有希子の作品は折に触れて読んで行きたいと思う。
posted by Tommy at 22:26| Comment(0) | 本(文学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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