2009年08月05日

【おすすめ本】「プラスの質問」で脳をつくりかえる―『デキる人の脳』

4837956998「デキる人」の脳
本田 直之
三笠書房 2009-07-07

by G-Tools


タイトルだけ見るといかにも昨今の脳科学本ブームに便乗した本に見えるが、その実はNLP(神経言語プログラミング)系の自己啓発本。NLPとは簡単に言えば、プラスの言葉を使った自己暗示のテクニックだが、本書は巷の凡百のNLP本とは一線を画す強力なテクニックを紹介している。これほどすぐに効果が実感できるテクニックも珍しいので今回紹介してみることにした。

それが、「アフォーメーション」と呼ばれるテクニックだ。

なんだそれなら知っているよという方もいるかもしれないが、「アファーメーション」ではない。「アフォーメーション」である。「アファーメーション」肯定的な言葉を自分に投げかけるのに対し、「アフォーメーション」は肯定的な「質問」を自分に投げかけるのである。

例えば、今までのNLPでは、「私はプレゼンが得意である」というようなプラスの言葉を自分に投げかけるだけだった。しかし、「アフォーメーション」の場合は、「なぜ自分はプレゼンを上手にこなすことができるのだろう」というように、自分が高めたいことを既に達成していると仮定した質問を自分に投げかけるのである。

脳というものは質問を受けると自動的に答えを探すようにできている。そのため、このようなプラスの質問をなげかけていると、自然と自分の脳がプラスの思考パターンにつくりかえられていくのだという。そうすると、「自分が既に持っているもの」に注意が向けられるようになり、前向きな考えを持てるようになるのだという。

「私たちに必要なのは正しい思考パターンを『つくる』ことで、強引に『ポジティブ・シンキング』によって『言い聞かせる』ことではありません」(P.56)

これは一見シンプルなテクニックだが、単純にプラスの内容を自分に言い聞かせるだけの従来のNLPとはケタ違いの効果がある。

試しにやってみよう。

本書ではアフォーメーションの実践ステップとして次の4つを紹介している。

@自分ののぞみを明確にする
A望みが叶っていると仮定して自分に尋ねる
B質問を工夫して答えを待つ
C前向きな仮定に基づいて行動する


例えば、すごく身近な望みとして「文章が上手くなりたい」という目標を設定してみる。そして、次にその望みが叶っていると仮定して自分に質問をしてみるのだ。

「なぜ自分はこんなに文章が上手いのだろう?」

これを繰り返し脳に質問していると、その内モヤモヤっと答えが出てくるのである。

私の場合をお話すると、過去に人から文章が上手いといわれたときの記憶が蘇ってきて、そのように誉められた文章は決まって「メールの文章」だったことを思い出した。つまり、レポートや作文のようなものよりも、ダイレクトに読み手に届くもの、読み手の顔が見えているものの方が、文章が上手く書けるケースが多かったのだ。

このことから私は、ブログやレポートなどでも、読み手を明確に想定して書くことの大切さを改めて認識することができたのである。

これはあくまで私の例で、人によって自分から出てくる答えは異なるだろう。しかし、この「自分から出てくる」ということが一番大切なのだ。「自分から出てくる」ということは、「自分が既に持っている要素」ということである。「アフォーメーション」とは、このように自分が既に持っているものに注意を向けて、自分の脳をプラスにつくり変えてパフォーマンスを高めるためのテクニックなのである。

このテクニックをアカデミック・スキルに応用すれば、実に様々な質問が思いつく。

・なぜ私はこんなに多くの本を読むことができるのだろう?
・なぜ私はこんなに難しい本を理解できるのだろう?
・なぜ私はディベートの際に的確な意見をたくさん言えるのだろう?
・なぜ私は独創的なアイデアが次々に思いつくのだろう?
・なぜ私は質の高い論文を次々と生産することができるのだろう?


皆さんも騙されたと思って是非試してみて欲しい。
その効果の高さに必ずや驚かれるはずだ。
posted by Tommy at 18:33| Comment(32) | 本(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月09日

記憶力を高める14の方法

コリン・ローズの加速学習法実践テキスト―「学ぶ力」「考える力」「創造性」を最大限に飛躍させるノウハウ
Colin Rose 牧野 元三
4478732922


最近、勉強する時間がどんどん減っており、限られた時間の中で最大限に効率のいい勉強法を改めて模索している。そこで、前にどこかのサイトで見て気になっていた『コリンローズの加速学習法実践テキスト』を購入してみた。

内容はというと、脳科学や自己啓発関係の本に書かれている内容をコンパクトにまとめた感じだが、情報の圧縮度はかなり高い。これ1冊でかなりの勉強法が網羅されている。勉強をする前の心の準備や、リハーサルの大切さなど示唆に富む内容。基本的にビジネスマンや子供のいる父母向けに書かれてはいるが、アカデミズムを志す者にも十分有益な内容だ。

その中でも、「記憶力を高める14の方法」は、基本的なものから珍しいものまで、もう記憶術はこれ以外必要ないのではないかと思えるくらい網羅されている。以下メモ書き程度に列挙しておく。



1.記憶しようと決心する

これは基本中の基本。まずは強く記憶しようと思わないと覚えられるものも覚えられない。


2.定期的に休憩する

本書によると、休憩は頭を休める目的の他に、「始めと終りをたくさん作る」効果があるらしい。これは、勉強の中で始めと終りに覚えたことが一番記憶に残りやすいという法則に基づいている。


3.「復習のサイクル」を活用する

これも基本。何かを学習したら、1時間後、1日後、1週間後、1ヵ月後、半年後という具合に、復習する間隔を広げていくと定着しやすくなる。


4.複数の感覚に関係する記憶を作る

よく言う「五感を使って覚えろ」というもの。


5.イメージ法を使って覚える

上記の4に似ているが、記憶したい対象に、何か動きがあるイメージや滑稽なイメージなどを関連付けると記憶に残りやすくなるというもの。


6.「復習のコンサート」の試み

これは斬新。モーツァルトなど一般的に頭がよくなるとされている音楽を聞きながら、復習を行うというもの。自分が記憶したいと思う内容をテープに録音し、音楽と一緒に聞いても効果的だという。


7.「記憶フラッシュ」

学んだ内容をマインドマップ(本書では学習マップと呼んでいる)形式にまとめて記憶し、その内容を白紙に再現して記憶の定着を図るというもの。最初のマップと2枚目のマップを見比べて、どこが思い出せていなかったかチェックするとより定着率が上がるという。


8.フラッシュカード

これは単語暗記などでおなじみ。


9.フラッシュマップ

上記7で書いたマインドマップを全部集めてバインダーにファイルし、短時間にすべての復習を行うというもの。これは結構使えそうなアイデアだ。例えば、専門分野の文献100冊くらいを学習マップ100枚にしてファイリングし、1枚10秒くらいで高速に復習していけば、15分ちょっとで完了できてしまう。そうすれば、専門分野のかなり広範な知識を常時活性化した状態で保つことができる。


10.記憶コードを作る

「NASA」など、頭文字を使って覚えやすくするなど、記憶を助ける言葉を利用する方法。


11.一晩かけて染み込ませる

これもよくある。寝ると記憶が精緻化されるというもの。


12.記憶すべきポイントに番号をつける

関連する複数の対象を覚える場合は、それぞれに番号をつけておくと、思い出すときに抜けがあってもすぐに気がつくことができる。


13. 反復学習

基本中の基本。


14. ひとまとめにする

いわゆるマジックナンバー7を応用したもの。複数の学習マップにそれぞれ1語でタイトルをつけ、すべてのタイトルを思い出せるような7語の記憶コードをつくると、いもづる式に思い出していくことができる。

posted by Tommy at 23:40| Comment(0) | 本(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月04日

【Book】『難解な本を読む技術』+個人的な補足

難解な本を読む技術 (光文社新書)
高田明典
4334035086


昨今の経済不況の影響もあり、スキルアップのために読書をする人が増えている。書店に行くと夥しい数の「読書術」系の本が溢れており、どれもこれも「1日1冊戦略的に本を読め」とか「読んだ本はアウトプットせよ」とか似たようなことばかり書かれている。既にもう見ただけで満腹状態である。

そういう読書も嫌いではないのだが、私の場合は、大学院で思想系の本を結構たくさん読まないといけない身であり、思想系の本にはそういうプラグマティックな読書術は適用できない。そもそも、思想系の本というのは、自分に必要な情報を得るというよりも、その本を読むという経験を通して、自分自身で考えを深めたり、世界観を組み替えたりするものだからである。だから当然、思想書は思想書なりの読み方というものが必要になってくる。

『難解な本を読む技術』は、そのような思想書なりの読み方に的を絞った今までにありそうでなかった読書術系の本だ。こんな不況な世の中でのん気に難解な思想書をしこしこ読める人が(アカデミック関係者以外で)果たしてどの程度いるのか疑問だが、ともかく本書は、思想書を読む人にとっては何かしら得るものがあるのではないかと思う。

例えば、著者は「難解な」西洋系の思想書を2つのベクトルでタイプ分けしている。1つが「閉じている本と開いている本」という分け方で、「閉じている本」というのが著者が答えを明示している本、「開いている本」というのが著者が答えを明示しておらず読者に考えさせる本、だという。このタイプ分けを知っていると、難解な本を読んでいる時に往々出くわす「ああ、この作者はいったい何をいいたいんだよ?」というストレスがいくらか軽減されると思われる。

次に「登山型とハイキング型」という分け方で、「登山型」は著者の提示する概念をどんどん積み上げていくような本で、「ハイキング型」は積み上げ式ではなく著者がいろいろな概念や論理を提示していく本だという。このタイプを分け知っていると今度は、「ああ、この作者は次から次と話が飛んでつながりが分かんないよ!」というストレスが軽減されるだろう。

この他、難解な思想書ならではの「わからなさの理由」として次の4つが挙げ、それぞれの対処法が述べられている。

@その部分で使われている用語の理解が不十分
Aその部分で使われている論理関係の理解が不十分
Bその部分で扱われている問題の理解が不十分
C著者が言おうとしていることを図にする必要がある


この4つはまさに難解な本を読んでいる際によく出くわす障害ではあるのだが、少し物足りなさを感じた。難解な本を読んでいると、用語や論理関係の理解ではどうにもならないような、それこそ途方にくれるような事態にでくわすことがよくある。そういう経験から、私なりに2つほど補足してみようと思う。

・著者が使用している概念が頭の中で整理されていない

これは例えば、『資本論』などを読んでいると「使用価値」「価値」「相対的剰余価値」「一般的剰余価値」など、「価値」と名のつく概念だけでも無数に登場するのだが、このそれぞれをきちんと頭の中で整理しながらよんでいかないと、「登山型」の場合は必ずどこかで行き詰ってしまう。

こういう場合は、簡単に概念を整理した図を紙に描きながら読み進めるのが良い。本書では読書メモを丹念に取ることが推奨されているのだが、やはり時間がかかりすぎてしまうのがタマにキズだ。そのため、あくまで概念を整理することだけを念頭に置き、キーワードや矢印だけのシンプルなものでもいいので、描きながら読んでいくと、いくらか読みやすくなるはずだ。

・著者が説明していることを理解するための経験が不足している

難解な本を読んでいると、「言っていることは何となく分かるのだけど、いまいちピンとこない、ストンと落ちてこない」ということがよくある。この問題に関しては、「理解する」ということがどういうことかについて、もう少し突き詰めて考える必要がある。

「理解する」ということは、そこで語られていることの内容を把握するというだけでなく、語られていることの「重み」のようなものも把握することを意味するのである。例えば、自分が民族的な理由で迫害を受けた思想家の言っていることを真に理解するためには、その思想家が語っていることの「重み」つまり、言外に込められたその思想家の様々な思いも同時に捉える必要があるのだ。そのためには読者自身のそれまでの経験の動員がどうしても必要になってくる。

しかし、だからといって、迫害を受けたことがなければその思想家を理解できないのかといえばそうではなくて、自分の限られた経験を総動員して、誠実に想像力を働かせること。そのようなたゆまぬ努力を続けていけば、いくらか真の理解に近づくことはできるはずなのだ。(しかしこの場合の「真の理解」というのも曖昧なもので、当然ながら100%の理解など存在しない)

そんなこんなで、このように難解な思想書を読むのはまことに厄介というか、骨の折れる行為なのではあるが、辛くても我慢して読み進めて行った先に待っている、あの世界観が組み替えられる時の興奮は、他では決して味わえない、人生でも数少ない妙味であることだけは間違えない。
posted by Tommy at 00:34| Comment(2) | 本(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月24日

電車の中で読むのが恥ずかしい本、恥ずかしくない本

電車の中でカバーを付けずに本を読んでいる人がいる。私は必ずカバーを付ける派なので、カバーを付けずに人前で堂々と本を読める人の気が知れない。本というものは、多かれ少なかれ、読んでいる人の興味、関心、嗜好などを如実に物語る。どんな本を読んでいるかということは、その人の内面を露呈してしまう、極めてプライベートな媒体なのだ。

それなのに、世の中の人は、よくもまあパブリックなスペースで、自分の頭の中身を惜しげもなく曝け出している。内容が高度そうな本であれば特に恥ずかしがることもないのかもしれないが、安直なタイトルのビジネス本とか、べたべたのベストセラー小説なんかを平気でカバー無しで読んでいる。あれでは、自分の頭の空っぽさ、俗物さを露呈しているようなものだ。

カバーなしの本よりもっとひどいのがスポーツ新聞を広げて読んでいるオッサンだろう。隣に若い女性がいる時でも平気で風俗欄を広げて食い入るように読んでいる。これはほとんどセクハラなんじゃないかと思う。刑法に「わいせつ物陳列罪」というものがあるが、この場合、「わいせつ“心”陳列罪」にしてもいいのではないかと思う。

何で公共の場でこういう無神経な行動を取れるのだろうか。結局この問題も、電車内で化粧をしたり、大音量で音楽を聞いたりする行為と本質的に変わらないのかもしれない。要するに公共の場における「他者」という存在を尊重していない、あるいはもっといえば認識すらしていないのだ。

とまあ、こうやってぐだぐだ文句ばっかり言っていても仕方がないので、少しは実用的な内容の文章も書かないとなあと思い、今回「電車の中で読むのが恥ずかしい本、恥ずかしくない本」というのを考えて見た。これさえ押さえれば、カバー無しで本を読むのも怖くはないはずだ。

【電車の中で読むのが恥ずかしい本】

・ベストセラー全般


これは人によって捉え方が違うのかもしれないが、私はベストセラー本を人前で読むというのは、「私は凡庸です!」と公言しているだけのような気がしてあまり好きではない。もちろんベストセラーの中にも優れた本は少なからずあるのだろうが、それでもこと書籍に関しては、ベストセラーのレベルの低さには亡国の念を抱かずにはいられないほどである・・・。

・ノウハウ系のビジネス書全般

一般的に人は、劣っているスキルを伸ばすためにノウハウ系のビジネス書を買う。だから電車内でノウハウ系のビジネス書を広げていれば、「ああ、この人はそういうスキルがない人なんだなあ」と思われてしまう。例えば「部下に好かれる本」であれば、「この人は部下に好かれてないんだなあ」となるし、「上司にほめられる本」であれば、「この日人は上司にほめられていないんだなあ」となってしまう。「サルでもわかる」なんて言われたら・・・。

・コテコテの恋愛小説

これはちょっと恥ずかしいでしょう。頭のはげかかったオッサンが、宮部みゆきとか、桐野夏生とか読むのは一向に構わないのだが、村山由佳とか唯川恵とか読んでたらちょっと引いてしまう。綿谷りさとかでも、あのオッサンが頭の中で女子高生の口調で読んでいるのかと思うと、やはり引いてしまう。でもまあ、そのギャップがもしかしたらそのオッサンの魅力だったりするのかもしれない・・・。

【電車の中で読むのが恥ずかしくない本(むしろすすんで読みたい本)】

・哲学・思想書全般
精神現象学
G.W.F. Hegel 長谷川 宏
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難解そうな本の代名詞といえばやはり哲学書だろう。分厚くて難解そうなタイトルの本を電車の中で読んでいたりしたら、「あの人はきっと重い思想的問題を抱えているのだろう」と周囲の人から畏れられること間違いない。中でもぴったりなのが、ヘーゲルの『精神現象学』(長谷川宏訳)なのではないか。まずタイトルが見るからに「哲学です!」という感じだし、分厚くて装丁もオシャレなので「魅せる」にはもってこいだ。ただし、余りにも「狙いすぎ」な感も否めないので、逆に俗物さを露呈することにもつながりかねないので注意が必要。

・長編文学の最終巻
失われた時を求めて〈1 第1篇〉スワン家のほうへ (ちくま文庫)
Marcel Proust 井上 究一郎
4480027211

(画像は第1巻)

古今東西の名作文学の中には、何冊にも渡る大長編の作品が少なからずある。そういう作品の最終巻を読んでいたりしたら、「あの人はあの大作を全部読んできたのか!」と畏れられること間違いない。この手の本でぴったりなのが、プルーストの『失われた時を求めて』だろう。1冊だけでもかなりのボリュームがあるこの小説を最終巻まで読んでいるのだからかなりの強者と思われるだろう。ただし、逆に余程の暇人か?と思われる危険もあるので注意。

・洋書全般
The Audacity of Hope: Thoughts on Reclaiming the American Dream (Vintage)
Barack Obama
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これはもう問答無用でスタイリッシュだ。英語できることが珍しいことでも何でもない世の中になってきているとはいえ、それでも大部のペーパーバックを広げて読むさまは、まだまだ「おっ」と思わせるものがある。今だとタイムリーな「オバマ本」を原著で読んでいたりしたら格好いいだろう。ただしうっかり逆さのまま読んでいたりすると、「フリ」であることがばれてしまうので注意。
posted by Tommy at 22:56| Comment(0) | 本(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月13日

繰り返される日本語教育批判

■『日本語が亡びるとき』論争

先週からネット上で水村美苗氏の『日本語が亡びるとき』が話題になっている。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

まず梅田望夫氏がブログで本書を「全ての日本人が読むべき」と激賞。それに続いて小飼弾氏も同じく「今世紀最重要の一冊」と評価。その後のはてブのコメントに対する梅田氏の発言等も波紋を呼び、ネット上は「英語と日本語」論議で相変わらず賑わっている。

★[コラム] 水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。(My Life Between Silicon Valley and Japan)

★今世紀最重要の一冊 - 書評 - 日本語が亡びるとき(404 Blog Not Found)

(ちなみに私が上記のように「ネット上」と書いている時は、結局ははてブの人気・注目エントリを意味している。これはこれで偏った認識な気もするがそれは別に考える。)

■言語が世界認識を規定する

事態を観察していて思ったことは、言語というものは、その国の文化と切っても切れない関係にあるということだ。

言語と文化という観点でまず思い出すのが、スイスの言語学者ソシュールだ。

★フェルディナン・ド・ソシュール(Wikipedia)

ソシュールの言語学を恐ろしく単純化して言うと、次の2点で表すことができる。

 @言語は、予め分節された世界の対象と一対一で対応しているわけではなく、

 A言語が、世界の対象の切り取り方(分節の仕方)を決めているのである。

そして、このような言語は1つの言葉だけで世界の切り取り方を規定するのではなく、他の複数の言葉と相互に連関し「体系化」された上で、規定しているのである。

つまり、言語システムによって人間の世界認識は別様に変化するのである。

言語システムが世界の捉え方を規定する良い例が「色」だ。

★日本の色辞典(情報考学)

「赤、紫、青、緑、黄、茶、黒・白、金・銀の8グループに466色が分類されている。たとえば赤グループは、

【赤】 代赭色、茜色、緋、唐紅、今様色、一斤染、朱華、赤香色、赤朽葉、蘇芳色、黄櫨染、臙脂色、猩々色など104色。」


このような「色の体系」によって世界認識が変わる良い例が「虹」である。

虹の色数(Wikipedia)

「虹の色の数は現在の日本では一般的に七色(赤、橙、黄、緑、青、藍、紫)と言われるが、地域や民族・時代により大きく異なり、アメリカやフランスなどでは一般的には六色(赤、橙、黄、緑、青、紫)、もしくは藍を加えて7色といわれたりする。ドイツでは五色、スウェーデンでは(赤、黄、青、緑、桃、藍)である。」


言語は世界の切り取り方を規定する。言語体系の豊かさがそのまま、世界認識の豊かさにつながる。世界認識の豊かさは、豊穣な文化を育む。そして、豊穣な文化は、人間が豊かな人格を形成する土壌となる。

この言語体系をもっとも豊かにするものが「文学」なのである。誤解がないように言っておけば、「文学」以外にも言語体系を形成する言葉は数多く存在する。しかし、言語体系における文学の重要性は、先にも触れた「色」の例でも、疑いようがないものだと言える。

★日本の色辞典(情報考学)

「日本の伝統色は布や和紙に使われテクスチャの質感を伴ってこそ美しいのだ。写真ベースの色見本はこれだけで鑑賞に値する。伝統色は決してRGBのような単純な情報に還元できないことを思い知らされる。」

「古典文学や風雅な世界で使われる色名が、実際にはどんなに美しい色なのかがよくわかる。」


日本語の衰退は、世界を分節する言葉の貧困化を意味する。世界認識が貧困化すると、文化も衰退する。そして、文化の衰退は人格の退廃に帰結するのである。(人格は生まれ育った環境の文化によって形成される。)

■繰り返される日本語教育批判

このように、日本語の危機は、日本文化と日本人としての人格形成にも影響を及ぼす危機的状況なのだ。しかし、このような書き方をすると途端に「ナショナリズムだ」と言って批判される。

今回の『日本語が亡びるとき』でも、「日本語教育の強化はナショナリズムだ」といった批判が少なからずされている。

★[critics]水村美苗『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』を読む。(海難記)

「水村美苗の本は、梅田望夫氏が考えているのとはまったく違った意味でも、多くの人に読まれるべきである。そして議論が起こされるべきである。そして願わくば、このようなナショナリズムと悲観と無知と傲慢さ*6によって彩られた本は否定され、「近代文学」の達成をふまえつつ、現在の日本語で優れた小説を書いている作家たちの「孤独」こそが、広く知られるべきなのだ。」

私はそうは思わない。村上春樹や吉本ばななの文学は放っておいても若い人から年配まで幅広い年代が読む。(私も大好きだ)しかし、国語の教科書から漱石や芥川の文章が消えていく中で、むしろ「読みつがれるべき」と焦点を当てられるべきは「近代文学」なのではないだろうか。

★英語の圧倒的一人勝ちで、日本語圏には三流以下しか残らなくなるが、人々の生が輝ければそれでいい(分裂勘違い君劇場)

「文化のために個々のリアルな人間が存在するのではなく、個々のリアルな人間の生を豊かにするために文化が存在するのだ。個々の人間のリアルな生が輝くのなら、日本文化など亡んでもかまわない。」

一見「確かに」とうなずいてしまいそうな極論だが、これも誤り。主張の根拠が実存主義なのが空しい。

実存主義は四半世紀以上前に構造主義に否定されている。つまり、個々のリアルな人間の生など存在せず、文化の持つ構造が人間を規定しているのだ。言語教育なくして、個々のリアルな生など存在しない。(しかしその「構造」も、後にポスト構造主義で批判されるのだが。)

言語教育すら、日本語ではなく英語のみで良いというのであれば、それはアメリカ主導のグローバリズムとIT社会への盲従を意味する。この分裂氏は、漱石や芥川を否定し、マンキュー(ハーバード大教授)やプログラミングのフロー体験がもたらす快感を優位に挙げていて、まさにアメリカ至上主義の極論である。

このような日本語教育=ナショナリズムという批判は、日本語ブームが到来する度に繰り返されている。大岡晋の『日本語練習帳』しかり、齋藤孝の『声に出して読みたい日本語』しかり。

私も社会学を学ぶ端くれなので、軍国主義や民族主義に結びつくナショナリズムには断固として反対する。しかし、自国の言語教育を拡充することまでナショナリズムと言って批判する必要は果たしてあるのだろうか。日本語教育を批判することで、何か建設的な結果を生み出すことはできるのだろうか。

■自国語と文化を学ぶ意味

世界にはアジア地域に限らず、日本語と日本文化を真剣に学んでくれている人たちが少なからずいる。私の連れは海外旅行の添乗員をやっているのだが、先日トルコ旅行に行き、現地ガイドの日本語の流暢さに驚いたという。

そのトルコ人の現地ガイドは、英語以外に変わった言語を学びたいと日本語を学び始めた所、日本語の面白さに気づき、その後日本文化もどんどん学んでいったのだという。

そういう人たちは、自国の国語教育を強化するなどというとすぐにナショナリズムだと批判される日本の現状を見てどう思うのだろうか。

日本に興味を持ち、日本について学んでくれている外国の人たちに対して、われわれ日本人が日本語と日本文化を真剣に学んでおくことは、むしろひとつの責任なのではないだろうか。

日本語教育が叫ばれる度に、その火は、「日本」と聞けば何でも「ナショナリズム」と否定する、生産性のないリベラリストによって絶やされる。かくして、日本には日本語も外国語もできない中途半端な人間が増加していく。亡国の日はそう遠くないのかもしれない。
posted by Tommy at 12:43| Comment(0) | 本(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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