2009年06月23日

ねじは巻かれた。

村上春樹の最新作『1Q84』が予想通りとてつもない売れ行きを示している。イスラエル賞受賞時のスピーチが、当時の中川財務相の泥酔会見という最高の「ひきたて」もあり、世界に誇れるカッコいい日本人として注目された記憶もさめやらぬ中の、満を持しての新作。売れないわけがない。

1Q84 BOOK 1
村上春樹
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1Q84 BOOK 2
村上春樹


そんな村上春樹の1つ前の長編といえば『ねじ巻き鳥クロニクル』だが、私はその中で出てくる「ねじ巻き鳥」を勝手に「運命の歯車」と理解している。物語の要所要所で現れる「ねじ巻き鳥の“ぎいいい”という泣き声。この声と共に、主人公の運命の歯車は回り始める。そういう読み方をしたのだ。


ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)
村上 春樹
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そのような前置きは踏まえた上で、
人生における「ねじ巻き」について書きたい。



人生において、ねじは必ず巻かれるものなのだ。


どんなに辛くても

どんなに未来が真っ暗になっても

どんなに死にたくなっても


生き続けること。


耐える続けること。

待ち続けること。

抗い続けること。


生き続けてさえいれば、

いつか必ずねじは巻かれる


運命の歯車は回りだす

そうすれば人は動き出すことができる
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2009年06月07日

【book】『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』本谷有希子

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)
本谷 有希子
4062757419


単行本は2005年7月刊。私にとって初めての本谷有希子作品。私は、読んだことのない著者の小説を初めて読む際は、かなり斜に構えて読むようにしている。つまり、その著者が本当に信頼するに足りるかどうか評価しながら読むのだ。今日、小説なんて吐いて捨てるほど出版されているのだし、小説以外にも物語の楽しさを経験できるメディアなんていくらでもあるのだから、つまらない小説に費やせる時間などないのだ。

その一方で、本当に信頼に足りる作家を見つけることが出来たら、今度はその作家の作品は全部読もうとする。気に入った作家の小説を読むことは、人生の中でも5本の指に入るくらいの至福なひとときだし、単に楽しめるだけではなく、人生に関する深い洞察や新しい世界観を得ることもできる。そして何より、「気に入る」ということは、自分の内面と何らかの関係を持っているということであり、そういう作家の作品を読むことは、自己省察にもつながるのだ。

では「信頼に足りる作家」とはどういう基準で判断すればよいのだろうか。私の場合は、小説はほとんど純文学しか読まないので、その際の判断基準は、桑原武夫の『文学入門』の影響が大きい。桑原は優れた文学の条件として次の3点を挙げている。

文学入門 改版 (岩波新書 青版 34)
桑原 武夫
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@新しいこと
A誠実であること
B明快であること

私の場合、Bは特に重視しないが、@とAはかなり重要な判断基準になっている。@は単純な意味で内容が新鮮であることはもちろん、もっと深い意味としては「芸術的」であることを意味する。芸術とは、常識的なものの見方に揺さぶりをかけて、新しい世界観を提供するものである。Aは、作者が心を魅かれた対象に対して誠実であることを意味する。作者が感動した対象に誠実に接していなければ、読者はそのような作者の感動を追体験できなくなってしまうのだ。


このような意味で、私は本作品で幸運にもまた1人「信頼に足りる作家」を見つけることができた。本作品は、地方の過疎化した村を舞台に、女優志望で自意識過剰な姉・澄伽(すみか)と、そんな姉を嘲笑と反抗の眼差しで見つめる妹・清深(きよみ)との、壮絶な家庭内暴力を、物語の1つの軸として展開する。

澄伽は自分に女優の才能があることを信じて疑わないのだが、家族や周囲の人間はそのような澄伽を冷ややかに見つめる。客観的に見ると才能がないのは明らかなのに、澄伽はそれを認めようとしない。それを認めてしまえば、澄伽は完全に自分というものを失ってしまうからだ。ここに現代人特有の、アイデンティティー・クライシスに苛まれる人間の、精神の危機が現れている。

俳優に限らず、タレント、ミュージシャン、マンガ家など、「芸能」を志す、いわゆる「夢追い人」は、客観的に見て才能があれば問題はないのだが(ちなみに私は才能は後天的に養成されるものだと考えているが)、そうでない場合は、なんと周囲から見て「もの悲しい」ものなのだろうか。早く目をさましなよと言ってやりたいのはやまやまなのだが、それでは当人の夢を壊すことになってしまう。しかし、まったく己を客観視せず、ひたすら夢を追うという、その「純粋さ」「無邪気さ」「盲目さ」に、悲しみを、苛立ちを感じずにはいられない。

本作品は、このような自意識過剰で己を客観視できない「イタい」夢追い人の「もの悲しさ」を巧みに描いている。物語の前半で、澄伽は、ある映画監督の小林哲生と文通を始め、その手紙の中で次のように書いている。ちなみに、澄伽は舞台女優でほそぼそと活動したことがあり、また哲生は撮影中の映画の主役の女性を探しているという流れ。

「そういえば、こないだまだ決まらないと言っていたヒロインの候補は思い付きましたか?折角の大きな企画なんだから、イメージ通りの女優さんが見つかるといいですね。演技力と色気のある美人……。うーん、確かに哲生さんの言う通り、顔がきれいで本当に演技が上手い女優って最近少ないと思います。参考になるかどうか分からないですけど、もし煮詰まってるなら、映画方面だけじゃなく舞台中心にやってる女優さんなども探してみたらどうですか?もしかして意外といい人がいるかもしれませんよ。みんなが見逃しているダイヤの原石が(笑)」(P.66)

イタタタタ……、という感じである。こういう人を見ていると本当に「悲しく」なってくる。しかしそれはあくまで第三者の場合であって、身内であればこの作品の妹・清深のように「苛立ち」の感情も芽生えてくるのだろう。しかし、清深の内面はそのような苛立ちに留まることなく異様な形に変容していってしまう。それは「愚かな姉の姿を多くの人間に知らしめたい」という欲望だ。(この欲望がきっかけで、澄伽の清深への壮絶な暴力が展開される。)この特殊な欲望にも「新鮮さ」を感じた。女優志望で自意識過剰な姉、そんな姉を客観視してその愚かさを人に知らしめたい妹。恐らく、この姉と妹を足して2で割ったのが作者自身なのではないか。(まあ純文学なのだから当たり前か)

ただこの2人の軸が秀逸だった分、物語の後半で、澄伽の腹違いの兄やその嫁の半生のエピソードが出てきたときは、少し唐突な感じがした。この2人のエピソードが入ることで、途端に安っぽい群像劇のような印象を少なからず受けてしまったのが惜しかった。しかし、作者は演劇の監督もやっているというのだからこういう群像劇的な書き方になるのも無理はないのかもしれない。しかしそれを差し引いても、主人公の姉妹の物語は、私に新鮮で追体験可能な人間観・世界観を与えてくれた。今後も本谷有希子の作品は折に触れて読んで行きたいと思う。
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2009年06月04日

【Book】『難解な本を読む技術』+個人的な補足

難解な本を読む技術 (光文社新書)
高田明典
4334035086


昨今の経済不況の影響もあり、スキルアップのために読書をする人が増えている。書店に行くと夥しい数の「読書術」系の本が溢れており、どれもこれも「1日1冊戦略的に本を読め」とか「読んだ本はアウトプットせよ」とか似たようなことばかり書かれている。既にもう見ただけで満腹状態である。

そういう読書も嫌いではないのだが、私の場合は、大学院で思想系の本を結構たくさん読まないといけない身であり、思想系の本にはそういうプラグマティックな読書術は適用できない。そもそも、思想系の本というのは、自分に必要な情報を得るというよりも、その本を読むという経験を通して、自分自身で考えを深めたり、世界観を組み替えたりするものだからである。だから当然、思想書は思想書なりの読み方というものが必要になってくる。

『難解な本を読む技術』は、そのような思想書なりの読み方に的を絞った今までにありそうでなかった読書術系の本だ。こんな不況な世の中でのん気に難解な思想書をしこしこ読める人が(アカデミック関係者以外で)果たしてどの程度いるのか疑問だが、ともかく本書は、思想書を読む人にとっては何かしら得るものがあるのではないかと思う。

例えば、著者は「難解な」西洋系の思想書を2つのベクトルでタイプ分けしている。1つが「閉じている本と開いている本」という分け方で、「閉じている本」というのが著者が答えを明示している本、「開いている本」というのが著者が答えを明示しておらず読者に考えさせる本、だという。このタイプ分けを知っていると、難解な本を読んでいる時に往々出くわす「ああ、この作者はいったい何をいいたいんだよ?」というストレスがいくらか軽減されると思われる。

次に「登山型とハイキング型」という分け方で、「登山型」は著者の提示する概念をどんどん積み上げていくような本で、「ハイキング型」は積み上げ式ではなく著者がいろいろな概念や論理を提示していく本だという。このタイプを分け知っていると今度は、「ああ、この作者は次から次と話が飛んでつながりが分かんないよ!」というストレスが軽減されるだろう。

この他、難解な思想書ならではの「わからなさの理由」として次の4つが挙げ、それぞれの対処法が述べられている。

@その部分で使われている用語の理解が不十分
Aその部分で使われている論理関係の理解が不十分
Bその部分で扱われている問題の理解が不十分
C著者が言おうとしていることを図にする必要がある


この4つはまさに難解な本を読んでいる際によく出くわす障害ではあるのだが、少し物足りなさを感じた。難解な本を読んでいると、用語や論理関係の理解ではどうにもならないような、それこそ途方にくれるような事態にでくわすことがよくある。そういう経験から、私なりに2つほど補足してみようと思う。

・著者が使用している概念が頭の中で整理されていない

これは例えば、『資本論』などを読んでいると「使用価値」「価値」「相対的剰余価値」「一般的剰余価値」など、「価値」と名のつく概念だけでも無数に登場するのだが、このそれぞれをきちんと頭の中で整理しながらよんでいかないと、「登山型」の場合は必ずどこかで行き詰ってしまう。

こういう場合は、簡単に概念を整理した図を紙に描きながら読み進めるのが良い。本書では読書メモを丹念に取ることが推奨されているのだが、やはり時間がかかりすぎてしまうのがタマにキズだ。そのため、あくまで概念を整理することだけを念頭に置き、キーワードや矢印だけのシンプルなものでもいいので、描きながら読んでいくと、いくらか読みやすくなるはずだ。

・著者が説明していることを理解するための経験が不足している

難解な本を読んでいると、「言っていることは何となく分かるのだけど、いまいちピンとこない、ストンと落ちてこない」ということがよくある。この問題に関しては、「理解する」ということがどういうことかについて、もう少し突き詰めて考える必要がある。

「理解する」ということは、そこで語られていることの内容を把握するというだけでなく、語られていることの「重み」のようなものも把握することを意味するのである。例えば、自分が民族的な理由で迫害を受けた思想家の言っていることを真に理解するためには、その思想家が語っていることの「重み」つまり、言外に込められたその思想家の様々な思いも同時に捉える必要があるのだ。そのためには読者自身のそれまでの経験の動員がどうしても必要になってくる。

しかし、だからといって、迫害を受けたことがなければその思想家を理解できないのかといえばそうではなくて、自分の限られた経験を総動員して、誠実に想像力を働かせること。そのようなたゆまぬ努力を続けていけば、いくらか真の理解に近づくことはできるはずなのだ。(しかしこの場合の「真の理解」というのも曖昧なもので、当然ながら100%の理解など存在しない)

そんなこんなで、このように難解な思想書を読むのはまことに厄介というか、骨の折れる行為なのではあるが、辛くても我慢して読み進めて行った先に待っている、あの世界観が組み替えられる時の興奮は、他では決して味わえない、人生でも数少ない妙味であることだけは間違えない。
posted by Tommy at 00:34| Comment(2) | 本(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月31日

リアルタイムテキストの可能性



これは結構面白そうなサービスだ。一見とりたてて新奇性もないように感じられなくもないが、キモはテキストでのコミュニケーションがリアルタイムになる点だろう。

【詳報】Google Waveとは何なのか?

「タイプ中の文字は1文字ずつサーバに送られ、各クライアントにほとんどタイムラグなしに動的に表示される。多くのインスタント・メッセンジャーでは、相手がタイピング中であることは表示されるが、実際に相手のメッセージが届くのを待つことになる。これがWaveではタイプ中の文字がサーバからリアルタイムに送られてくる。「これは会話をとてつもなくスピードアップさせます」

これはもしかしたら、ウェブコミュニケーションに革新をもたらすかもしれない。なぜなら、完全リアルタイムでのテキスト表示が可能になれば、コミュニケーションの厚みが格段に増すからである。

例えば、今までのメッセンジャーその類のテキスト・コミュニケーションでは、

「あなたを愛している」

と一文すべてが一気に表示されてしまう。それが、文字入力がダイレクトに反映される、リアルタイム形式になれば、

「あなたを(3秒ほど沈黙)愛している」

というような表現もできるようになる。つまり、一文の間にも「時間性」を介入させることにより、「感情」などより多くの情報を伝えることができるようになるのである。
ラベル:メディア
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2009年05月23日

前進か後退か…、あるいは道に迷った時に響くデカルトの言葉

大学院の生活にもやっと慣れてきたので、またぼちぼちブログの更新もしていこうと思う。院ってもう少し時間に余裕があるのかと思っていたら、読む文献の量も結構多いし、授業での発表も頻繁にあるし、なかなか忙しい。それでも会社員の時の忙しさとは質がぜんぜん違っていて、こちらの忙しさは全く苦にならないし、ストレスにもならない。手帳に、読まないといけない文献を書き込んでいって、マクルーハン、ハーバーマス、デリダとかずらずら並んでいって、うわあ大変だなあと思いつつも、ぞくぞくしてくる。

会社員時代は、まあ業種によっても異なるのだろうが、毎日代わり映えのしない業務の繰り返しで、同僚はみな早く休日が来ることだけを楽しみに、日々の仕事をやり過ごしていた。そんな生き方って嫌だなあとずっと思いながら働いていた。人生一度しかないのに、1週間の内の5日間も「早く過ぎないかなあ」と思いながら暮らす人生。そんなの絶対に間違っていると思っていた。

しかし、今は毎日もっと濃密な時間が流れている。文献と格闘している時間は辛くもあるが、自分の精神が少しずつ磨かれ、豊かになっていくのを実感することができる。会社員時代にも、このような実感、つまりどんなに忙しくても、少しずつ「前進」していっている感触、そのようなものがあれば、もう少し続けていたのかもしれない。

しかし、院での至福の時間も、うかうか満喫してばかりはいられない。ある程度の年齢になっておきながら、社会的には、また、何も生産しない状態になってしまったという「後退」の感触もなくはないからだ。これは退職した時に一番痛切に感じた。平日の昼間から私服で街を歩いているときにホワイトであれブルーであれ、仕事着を身にまとった人たちを見た時に感じるあの、うしろめたさ。「働かざるもの食うべからず」という、勤労主義をもっとも象徴することわざが、まあ身に刺さる、刺さる。

10年くらい前に、Mr. Childrenが『regress or progress』というツアーをやっていたが、まさに、と今改めて思う。もともと人生において、自分の選ぶ、あるいは選んだ道が、前進なのか後退なのかは、まったく判別しづらいものなのかもしれない。価値観や考え方によっても変わってくるし、時間的スパンによっても変わってくる。前進だと思って下した決断が後退だったり、あるいはまたその逆もあるだろう。

しかし、たとえ前進であれ後退であれ、「今自分がいる場所から移動している」ことだけは確かなのだ。前進なのか後退なのか思い悩んで、いつまで経っても歩まずにいたら、どこへも行けない。デカルトは『方法序説』の中で、「森の中で道に迷った旅人」の例を挙げて次のように述べている。

「旅人は、あちらに行き、こちらに行きして、ぐるぐるさまよい歩いてはならないし、まして一ヶ所にとどまっていてもいけない。いつも同じ方向に向かってできるだけまっすぐ歩き、たとえ最初おそらくただ偶然にこの方角を選ぼうと決めたとしても、たいした理由もなしにその方向を変えてはならない。というのは、このやり方で、望むところへ正確には行き着かなくても、とにかく最後にはどこかへ行き着くだろうし、そのほうが森の中にいるよりはたぶんましだろうからだ」(谷川多佳子訳 P.36)

この文章は、大学で初めてこの本を読んだ時以来、私の心の支えになっている。

方法序説 (岩波文庫)
Ren´e Descartes 谷川 多佳子
4003361318

posted by Tommy at 23:32| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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