2009年02月09日

大学生は就職する前から搾取されている。

昨年末頃から企業の「内定取り消し」が問題になっている。例年大学生の就職活動は早期化しているといわれており、一般企業への就職を考えている学生は4年間しかない大学生活の内、1年〜2年(場合によってはそれ以上)を就活に費やさなければいけない。就職情報サイトに登録し、マニュアル本を熟読し、筆記試験対策をし、リクルートスーツを着込み、就職セミナーに参加し、OB・OG訪問をし、エントリーシートを書き、何度も面接を受け、やっとの思いで内定を勝ち取って胸を撫で下ろしたのも束の間、企業の都合で一方的に取り消しを通告されるのだ。死ぬ気で受験勉強して合格した大学から合格を取り消されるのより、もっとひどい。学生が失意のどん底に叩き落されるのも無理はない。

もともと、今回の様な世界的な経済不況でなくても、「就活」は学生を振り回す悪しき慣習だ。受験では客観的な基準のある「学力試験」で選抜でされていたのに対し、「就活」では客観的な基準のない極めて主観性の高い要素で選抜される。自己PR、志望動機、熱意、コミュニケーション力、問題解決力など、客観的な判断基準を設けることが困難な多様な要素で選抜される。これらの要素は「学力」と違い、本人のアイデンティティーと密接に関わっているということもあり、面接で落とされた時の学生のショックは計り知れない。面接官から全人格を否定されたような気持ちになり、自信を失ってしまうこともしばしばある。

大学生は言わば「就職する前から搾取されている」のである。

「就活」のこの悪しき状況を赤裸々に暴露したのが、石渡嶺司・大沢仁『就活のバカヤロー』だ。
就活のバカヤロー (光文社新書)
就活のバカヤロー (光文社新書)

本書は、「就活」を巡る「学生」「大学」「企業」「就職情報会社」、4者それぞれの内幕を暴き、「就活」というものがいかに「皆が踊らされている悲しい茶番劇」であるかを告発している。中でも「就職情報会社」の項は、類書にはあまり見られない内容で、リクルートや毎日コミュニケーションズの様な企業が「就活」を背後で牛耳り、「マッチポンプ式」に利益を上げているカラクリが暴露されている。しかし、著者はそのような就職情報会社でさえ、企業の採用市場に流されざるを得ない弱い立場でもあり、「踊らされる」状況であることに変わりはないという。

「皆が踊らされている茶番劇」は、世界的な不況のせいで「皆が嘆き苦しむ悲劇」に変わってしまったのではないか。企業にも就職情報会社にも頼ることができないのだから、頼みの綱は「国」なのにその国も周知の通り甚だ心もとない。このような苦難の時期にこそ、本当に頼れるのは家族、親族、地域のような「ゲマインシャフト」なのかもしれない。かつて就職情報会社が隆盛する前は、就職経路のトップは「縁故」が占めていた。親の仕事を継ぐとか、親戚が勤めている会社に入るとか、共同体に頼った「就活」が当たり前だったのだ。共同体が崩壊し個人化が進行しきってしまっている今、共同体に頼るのも難しいのかもしれない。しかし、苦難の時期にこそ、離れていた家族、親族、友人などと再度手を取り合い、共に乗り越えていくことが必要なのではないか。

posted by Tommy at 09:50| Comment(0) | 本(社会学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月29日

悩み事を人に相談しても9割意味がない

物心ついた時から、私は自分の悩みを人に相談したという経験がほとんどない。

もともと、あまり自分のことを話さないタイプではあったが、それでも、仲のいい友達には、悩みのひとつやふたつくらい相談してもよさそうである。でもそれもしない。

いったい何でだろうと考えたとき、それはやはり「意味がない」からなのではないかと思った。

大学生の頃やっていたバイトの同僚で、同じように人に悩みを相談しても意味がないと考えているやつがいた。彼は、「人の悩みなんて実は当人の中ではもう答えが決まっていることがほとんどだ。だから悩みを相談された方は、当人がどっちに進みたいのか聞いて、その方向に背中を押してやればいいだけ」という考えの持ち主だった。

この「悩みの答えは当人の中にある」というのは、ある程度正しくて、その悩みが出てくるにいたった過程を全て経験しているのはこの世で当人ただ一人なのである。他の人がどれだけその過程を想像しようとも、当人ほど完全に経験することなど不可能だろう。あるいはこう言ってもいいかもしれない。悩みを一番深刻に考えているのは当人であり、周囲の人間がどれだけ真剣に考えても、当人の深刻さには及ばない。従って、悩みの答えを出せるのは結局当人がベストということになる。

それに実際、人に悩みを打ち明けた時の相手の反応というのも、まことに粗末なものではないか。友人に悩み事を相談した時の反応なんて、だいたい次のパターンのどれかに当てはまるだろう。

@とにかくポジティブになりなよ系

「悩んでたって仕方ないって!元気だしな!」
「お前だったら大丈夫だって。何とかなるよ!」

温かい励ましの言葉ではある。しかし、前向きになった所で解決されない問題というのも当然世の中にはたくさんあるし、そういう問題で悩んでいるときにこんな風に励まされても返って腹が立つだけだ。


A難しいよね〜系

「ん〜、難しいよね〜」

特に説明不要かもしれないが、多少なりとも込み入った問題を話すと条件反射的に「難しいよね〜」で済ましてしまう人が世間には少なからずいる。いや、というかかなりたくさんいる。


B私も昔そういうことあった系

「あ〜、私も昔そういうことあったよ。あの時は大変だったな・・・」

一見、過去の体験に照らして悩みに共感してくれる姿勢を示してはいるのだが、大抵はもう自分の話をすることがメインになってしまう。ひたすら話している内に何か別のトピックが出てきたら、瞬間的にそちらにシフトし、もう当人の悩みなどどこへやらだ。

もちろん、上記のパターンに当てはまることなく、真摯に悩みを聞いてくれる人も少なからずいる。しかし、そういう人でも、やはり悩んでいる当人ほど深刻に、我が事として考えられる人はまずいないのだ。

しかし、そうはいっても、人に悩みを相談することで何かしらのメリットを得られることもなくはない。

例えば、人に悩みを説明することで、悩んでいた事柄が整理されて、解消に近づく「物語効果」とか、あるいは語ること自体である程度鬱積していたものが発散される「カタルシス効果」とか。

でも、そういうのって、何だか相手を「道具」として使っているようで、私はあまり好きじゃない。自分の悩みを解決するために、正面に人を置いてモノローグを語るなんて、私はできない。

やっぱりどう考えていっても、人に悩みを話すことは無意味な気がしてならないのだが、最後に1点かなり重要なメリットを忘れていた。

それは「視野狭窄からの脱出」

ある問題で悩むと、当人はそのことで頭がいっぱいになってしまい、普段であればできるような様々な物の見方が制限されてしまうことがある。例えば、いじめ、過剰労働、多額の借金、失恋など、何か重大な問題を抱えたとは、そのことで視野が埋め尽くされてしまい、冷静に考えれば解決する手段はあるはずなのに、もう死のうと決意してしまったりする。視野狭窄は自殺へのパスポートのようなものだ。

そういう時、身近な人に相談すると、ぽ〜んと視界を開かせてくれるようなことを言ってくれる場合がある。未来は完全に真っ暗だったのに、いくらか何とかなりそうなイメージが湧いてくる。危ない、危ない、もうちょっと頑張ってみないとなと気を取り直す。そういう時は、人に相談することも必要なのだなあと思ったりもする。

結局、人に悩みを相談することは9割がた徒労に終わることが多いと思う。しかし、それでも、自分が視野狭窄に陥っているような深刻な悩みの時は、1割の望みにかけて、周囲の人に相談した方がいい。その人の何気ないひと言が自分の命を救ってくれるかもしれないのだから。
posted by Tommy at 00:41| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月25日

『バクマン。』は今後『DEATH NOTE』のように人間の根本問題に触れるシリアス路線に転換するに違いない・・・かな?

バクマン。 1 (1) (ジャンプコミックス)
小畑 健
4088746228


『DEATH NOTE』のコンビが再度タッグを組んだことで話題のマンガ。世の中に対して少し冷めた考えを持っている主人公「最高(もりたか)」が、同級生の秋人(あきと)」に誘われて、二人で少年マンガ家として成功することを目指す。まだ第1巻だが、裏表紙に「新時代成功物語」と書かれているので、大方この流れから逸脱せずに展開していくのだろう。

マンガの製作や出版事情などの具体的なネタが随所に散りばめられており、「ほ〜、そうだったのか」と目からウロコが落ちる。Gペンを使って描くことの難しさ、マンガ原作の場合は絵の入ったネームが必要なこと、週刊誌のマンガは人気がなければ10週で打ち切られる・・・などなど。小畑健が「今回はファンタジーは一切なしです。」と書いているように、「DEATH NOTE」とは打って変わってリアリティー重視路線のようだ。

リアリティーを喚起する要素の中には「自分ネタ」も結構出てくる。二人が処女作を投稿する会社が「集英社」だったり、会話の中に「デスノート」が出てきたりと、読んでいてニヤリとするようなシーンが数多く出てくる。一般的にマンガは、虚構の世界の中に読者を没入させようとするものだが、「バクマン。」は虚構の中に没入させたかと思うとすぐにまさに現実に引き戻し、読者が今没入していた世界がマンガであることを思い出させる。まさに「メタ」視点を楽しむという、極めて現代的なマンガと言える。

それにしても、二人の作者はなぜ「DEATH NOTE」の次のテーマを「マンガ家」にしたのだろう?よく言われているように、「DEATH NOTE」は、「この世から犯罪者をなくすことで平和な世界を造る」という、それ自体は筋の通った「理念」のために人の命を奪うことの是非を問うという、ドストエフスキーの『罪と罰』にも繋がるような、人間の根本問題を扱っていた。「DEATH NOTE」があれだけ大ヒットしたのは、魅力的なキャラクターや、ストーリーの面白さはもちろんのこと、そのような根本的な問題を世に問う作品だったからではないか。

そうであるならば、きっと本作も、何かしら人間や社会に関する根本問題に迫るような作品になるに違いない。第1巻は全体的にコミカルで、メッセージ性が希薄に思えたが、例えば今後は、マンガ家としてデビューするも作品が売れず不遇の時代を送って「夢を実現した後の地獄」を説いたり、マンガを読んだ少年が犯罪を犯してしまい作品がバッシングを受けて「メディアが社会に与えてしまう負の影響」を説いたり、あるいはそこまで行き着く前にマンガ家への道の途中で夢を諦めざるを得ない厳しい現実に直面して「夢を追うことの空しさ」を説いたり・・・、要はどこかで必ずやシリアス路線に転換するような気がするのだ。古谷実の『ヒミズ』みたいに・・・。そんなことないかな。でもちょっと期待はしている・・・いやかなり・・・。
posted by Tommy at 23:45| Comment(0) | 漫画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月24日

電車の中で読むのが恥ずかしい本、恥ずかしくない本

電車の中でカバーを付けずに本を読んでいる人がいる。私は必ずカバーを付ける派なので、カバーを付けずに人前で堂々と本を読める人の気が知れない。本というものは、多かれ少なかれ、読んでいる人の興味、関心、嗜好などを如実に物語る。どんな本を読んでいるかということは、その人の内面を露呈してしまう、極めてプライベートな媒体なのだ。

それなのに、世の中の人は、よくもまあパブリックなスペースで、自分の頭の中身を惜しげもなく曝け出している。内容が高度そうな本であれば特に恥ずかしがることもないのかもしれないが、安直なタイトルのビジネス本とか、べたべたのベストセラー小説なんかを平気でカバー無しで読んでいる。あれでは、自分の頭の空っぽさ、俗物さを露呈しているようなものだ。

カバーなしの本よりもっとひどいのがスポーツ新聞を広げて読んでいるオッサンだろう。隣に若い女性がいる時でも平気で風俗欄を広げて食い入るように読んでいる。これはほとんどセクハラなんじゃないかと思う。刑法に「わいせつ物陳列罪」というものがあるが、この場合、「わいせつ“心”陳列罪」にしてもいいのではないかと思う。

何で公共の場でこういう無神経な行動を取れるのだろうか。結局この問題も、電車内で化粧をしたり、大音量で音楽を聞いたりする行為と本質的に変わらないのかもしれない。要するに公共の場における「他者」という存在を尊重していない、あるいはもっといえば認識すらしていないのだ。

とまあ、こうやってぐだぐだ文句ばっかり言っていても仕方がないので、少しは実用的な内容の文章も書かないとなあと思い、今回「電車の中で読むのが恥ずかしい本、恥ずかしくない本」というのを考えて見た。これさえ押さえれば、カバー無しで本を読むのも怖くはないはずだ。

【電車の中で読むのが恥ずかしい本】

・ベストセラー全般


これは人によって捉え方が違うのかもしれないが、私はベストセラー本を人前で読むというのは、「私は凡庸です!」と公言しているだけのような気がしてあまり好きではない。もちろんベストセラーの中にも優れた本は少なからずあるのだろうが、それでもこと書籍に関しては、ベストセラーのレベルの低さには亡国の念を抱かずにはいられないほどである・・・。

・ノウハウ系のビジネス書全般

一般的に人は、劣っているスキルを伸ばすためにノウハウ系のビジネス書を買う。だから電車内でノウハウ系のビジネス書を広げていれば、「ああ、この人はそういうスキルがない人なんだなあ」と思われてしまう。例えば「部下に好かれる本」であれば、「この人は部下に好かれてないんだなあ」となるし、「上司にほめられる本」であれば、「この日人は上司にほめられていないんだなあ」となってしまう。「サルでもわかる」なんて言われたら・・・。

・コテコテの恋愛小説

これはちょっと恥ずかしいでしょう。頭のはげかかったオッサンが、宮部みゆきとか、桐野夏生とか読むのは一向に構わないのだが、村山由佳とか唯川恵とか読んでたらちょっと引いてしまう。綿谷りさとかでも、あのオッサンが頭の中で女子高生の口調で読んでいるのかと思うと、やはり引いてしまう。でもまあ、そのギャップがもしかしたらそのオッサンの魅力だったりするのかもしれない・・・。

【電車の中で読むのが恥ずかしくない本(むしろすすんで読みたい本)】

・哲学・思想書全般
精神現象学
G.W.F. Hegel 長谷川 宏
4878932945


難解そうな本の代名詞といえばやはり哲学書だろう。分厚くて難解そうなタイトルの本を電車の中で読んでいたりしたら、「あの人はきっと重い思想的問題を抱えているのだろう」と周囲の人から畏れられること間違いない。中でもぴったりなのが、ヘーゲルの『精神現象学』(長谷川宏訳)なのではないか。まずタイトルが見るからに「哲学です!」という感じだし、分厚くて装丁もオシャレなので「魅せる」にはもってこいだ。ただし、余りにも「狙いすぎ」な感も否めないので、逆に俗物さを露呈することにもつながりかねないので注意が必要。

・長編文学の最終巻
失われた時を求めて〈1 第1篇〉スワン家のほうへ (ちくま文庫)
Marcel Proust 井上 究一郎
4480027211

(画像は第1巻)

古今東西の名作文学の中には、何冊にも渡る大長編の作品が少なからずある。そういう作品の最終巻を読んでいたりしたら、「あの人はあの大作を全部読んできたのか!」と畏れられること間違いない。この手の本でぴったりなのが、プルーストの『失われた時を求めて』だろう。1冊だけでもかなりのボリュームがあるこの小説を最終巻まで読んでいるのだからかなりの強者と思われるだろう。ただし、逆に余程の暇人か?と思われる危険もあるので注意。

・洋書全般
The Audacity of Hope: Thoughts on Reclaiming the American Dream (Vintage)
Barack Obama
0307455874


これはもう問答無用でスタイリッシュだ。英語できることが珍しいことでも何でもない世の中になってきているとはいえ、それでも大部のペーパーバックを広げて読むさまは、まだまだ「おっ」と思わせるものがある。今だとタイムリーな「オバマ本」を原著で読んでいたりしたら格好いいだろう。ただしうっかり逆さのまま読んでいたりすると、「フリ」であることがばれてしまうので注意。
posted by Tommy at 22:56| Comment(0) | 本(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月22日

珍しい形式のオバマ就任演説ネタ―朝日新聞「素粒子」

昨日の朝日新聞のコラム「素粒子」が面白かった。多くの「オバマ大統領就任演説ネタ」の中でも、演説の内容には全く触れていない珍しい文章だと思う。短いので全文引用させていただく。

「未明の米大統領就任演説テレビ中継に見入る。おや、と思ったのは、歴史的な言葉を期待されて動く口の上の、二つの瞳。

その表情は、穏やかで落ち着いていて、冷静。歓喜の渦の主役でありながら、不似合いなほどの静謐さを漂わせていた。

期待の大きさと直面する危機。その瞳に、早くも新大統領の孤独を見た気がしたが。目は口ほどに物を言・・・わない、か。」

(2009年1月21日 朝日新聞 夕刊「素粒子」)


演説の内容には全く触れず、映像に映し出される大統領の表情を見据えて、鋭くその胸中を洞察している。文学性のある文章でありながら、批評性も持たせるという、職人芸のような文章。最後の件で、自らの主観的な想像を嗜めている所がまた、この文章の味わい深さを増している。

「素粒子」は昨年、当時の鳩山法相を「死に神」と表現したことが話題になったりと、割と執筆者の主観が全面的に押し出されているコラムだと思う。あまりピンとこないものも中にはあるが、大抵の作品は、大衆の気持ちを短い文章で鋭く代弁してくれていると思う。

こういう「主観的な解釈」は、読者の感性の視界を開き、新鮮な物の見方を提供する。これこそ、人文社会科学の誇るべき遺産のひとつなのだと思う。しかし、世の中にはこういう「主観的な解釈」を「統計やデータに基づいていない印象論」と批判する人もいる。しかし、「主観的な解釈」にしか捉えられない物は必ず存在するし、それがデータや統計に基づいた知見に比べて、優劣をつけられるものではないことは確かだと思う。
posted by Tommy at 13:40| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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