2009年01月21日

「新しい責任の時代」とは―オバマ大統領就任



昨年11月の大統領選挙勝利演説の時に比べると、いささかインパクトには欠ける部分もあったが、(まあ、あの時は社会全体の期待と演説の内容が奇跡的に一致した素晴らしい出来事だったので仕方ないが)それでも米国と西側諸国に希望を与える良い演説だったと思う。

今がかつてない危機の時代であることを改めて認識し、アメリカは自信を喪失している。しかし、それでもアメリカは過去の偉大な功績を思い起こし、システムを再建し、この困難を解決できると力強く語った。

オバマ大統領は、今後始まる大規模な経済再生政策を嘲る「皮肉屋」達の不毛な議論に対しても反論を述べた。「政府が大きいか小さいかが重要なのではない。大切なのは機能する政府だ」「市場が良いのか悪いのかではない。市場は富をもたらす偉大なもの。しかし注意深く見ていないといけない」と、市場への「政府の介入」路線をはっきりと示した。

外交に関しては、イラクからの撤退、アフガニスタンの平和構築を掲げながらも、「テロは必ず打ち負かす」と強圧的な姿勢も示した。オバマ大統領が新たな対テロ戦争の指導者とならないことを願わずにはいられないくだりだった。

今回の演説の最大のキーワードと目されているのが「新たな責任の時代」だ。それは、未曾有の危機に挑戦するために、「米国民1人1人が自分たち自身、国、世界に対して責任を持つということ」だと言う。

この表現は、「国民の国家への奉仕を求める」表現として、ケネディと対象的な、極めて現代的な表現だと思った。ケネディは「国家が国民に何をするかではなく、国民が国家に何をするかだ」と演説したが、もし今の時代に同じ表現で語った場合、反感を持つ人も出てきたのではないか。これを「責任」という言葉で巧みに表現したオバマは、時代の空気を敏感に読む、卓越したセンスを持っているのではないか。

「新しい責任」とは、新自由主義が国民に強いる「自己責任」とは異質なものと理解して間違いないだろう。それは、経済や外交面における未曾有の困難に立ち向かうために、政府と国民が一致団結してその責務を果たすというものであり、決して人々を戦争へと誘うあの危険な愛国心とは異なるものであると信じたい。


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2009年01月20日

【最高!】映画:ザ・ローリング・ストーンズ『シャイン・ア・ライト』

ザ・ローリング・ストーンズ×マーティン・スコセッシ「シャイン・ア・ライト」O.S.T.
ザ・ローリング・ストーンズ
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(著作権を考慮して画像はサントラCD)

私はこの映画を見る迄はっきりいってストーンズのファンでも何でもなかった。60過ぎのオッサン達がいまだにロックをやってて、それはそれでカッコいいのかもしれないが、むしろとっとと引退した方が全盛期がより伝説として輝きを増すだろうに、くらいに思っていた。

ところがこの映画を観た後はどうだろう。自分の認識の浅さを大いに反省すると共に、もうすっかりストーンズの虜になっていた。ストーンズの全盛期は60年代でも70年代でもない。常に今この瞬間が全盛期なのだ。

全精力と魂を込めてロックを楽しみ、そしてロックを表現する様は圧巻で、世界中のロックアーティストがまるでママゴトをしているかのように思えてしまう。若いアーティストが束でかかっても勝てるはずがない。次元が違う。ロックの神というか、ストーンズ自体がロックなのだと改めて実感させられる圧倒的なパフォーマンスだった。

この映画は紛れもないストーンズのライブ映画ではあるが、マーティン・スコセッシという説明不要のハリウッドの巨匠が監督しているということもあり、凡百のライブ映画とは一線を画す作品に仕上がっている。私のようなストーンズ素人や、ライブ好きでない人も楽しめる一級のエンタテイメント映画だ。

冒頭は、今回の映画撮影用のプレミアムライブの製作現場を映したドキュメンタリーから始まる。ミック・ジャガーとスコセッシの意見が対立したり、ミックがセットリストを開演直前までなかなか決めなかったりして、ハラハラさせられる展開。そして観客の興奮と待ち遠しさが絶頂に達した瞬間に、1曲目の「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」が始まる。もう映画館にいることを忘れて、飛び上がりたい気分だった。

本作の魅力は、ストーンズ自身の素晴らしさが最大の要素であることはもちろん、スコセッシがまとめ上げた絶妙なカメラワークにもある。ストーンズやゲストアーティストの動きや表情を克明に捉え、脳裏に刻み込まれるような印象的なシーンを次々とつないでいく。観終わった後はライブというよりもまるで1つの物語を読み終えた後のような満足感を味わうことができた。

この最上級のカメラワークは、この映画でしか味わえない独特の体験を生み出すことに成功している。この臨場感は、実際にライブ会場で直にアーティストを見る時の感覚とは質的に異なった、映画特有の感覚なのだ。よく大型会場のライブに行くと、遠くにいるアーティストを見つめる視線が単調になってきてしまい、気がつくと目まぐるしく移り変わる大型スクリーンの方を見てしまっているということがある。そう、ある条件では、生でアーティストを見るよりも、映像を通して見たほうが刺激が大きいという状況が存在するのだ。

本作のカメラワークの場合、単にドラマチックさや迫力を増しているだけでなく、一種独特の印象を観客に与えている。それは、ストーンズの「老い」も克明に捉えている所だ。ミックの顔のシワ、キースの骨ばった細い二の腕、曲と曲の間でふ〜っと一息ついているチャーリーなど、容赦なく映し出している。なのに、それなのに、展開されているパフォーマンスは若いアーティストが束でかかっても一生勝てないくらいにエネルギッシュなのだ。

そこで私は、何か異様なものを見ているような不思議な感覚に襲われ、そして次の瞬間には、それは常人を遥かに越えた何か崇高なものを目の当たりにしている時のような、心が震えるような感覚に変わったのだ。

とにかく、観れば必ず心が打ち砕かれる最高の作品。これで感動しないんだったら、あなたの心は死んでいるに違いない。
posted by Tommy at 13:22| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月07日

派遣切り報道に見るマスコミの信念なき報道

★「派遣切るな」2千人 怒りと不安、東京・日比谷

世界不況のあおりを受けて、非正社員らを減らす勢いが加速している。相次ぐ「派遣切り」に、不安を抱える労働者からは、対策を求める大合唱が起きている。
 4日夜、東京・日比谷野外音楽堂は、2千人の非正社員や労働組合の関係者らで埋まった。怒りと不安が満ちていた。(2008年12月4日asahi.com)



12月4日、日比谷公園で、不当に契約を打ち切られた派遣社員が大規模な集会を行った。世界不況の影響を受けて、経営状態が悪化した企業が非正規社員を一方的に解雇しているのだ。(まあ、今では日本IBMのように正社員でさえ少しも安心ではないのだが。)

この集会の模様が翌日の夕方のニュースで「このままじゃホームレスになってしまう。派遣社員怒りのデモ」みたいなセンセーショナルな見出しで報道されていた。夜の日ニュースでも同じように派手な報道がされていて、やけにテンションの高いニュースキャスターが「非正社員も正社員と同じように保障されるべき、私はこう思うんですけどね」みたいな聞いてて発疹が出てきそうな正論をぶちかましていた。(まあそれがニュースキャスターの仕事なんだから仕方ないのだろうが。)

不当解雇は確かに悪い。不況になって経営が苦しくなったからって非正規社員を一方的に解雇していくというのは企業側のエゴだし、労働者の権利を無視している。

しかし、である。契約を打ち切られるからと言っていきなり「ホームレスになってしまう」状況って、それはそれでいかがなものなんだろうか。そういう人は万一の時に備えて貯金をしたり雇用保険を払ったりしていなかったのだろうか。

労働問題ではこのような「自己責任論」が常に争点となる。企業もしくは社会が悪いのか、それとも労働者側が悪いのか。前者が、社会が非正規雇用を増やしたから低賃金労働が増えたと考えるのに対し、後者は、労働者は自ら望んで非正規雇用に就いている、自業自得だ、と考える。

この点に関しては、私は、正直言ってケースによって異なると思う。企業側が悪いケースもあるだろうし、労働者側に問題があるケースもあるだろう。

私は一般企業の退職経験があるので、職安のお世話になったことがあるのだが、あの場所の醸し出す負のオーラには凄まじいものがあった。そこには職員とまともにコミュニケーションしようとしていない肥満の男性や、やたらイライラしてそばにあるホワイトボードなどを蹴っ飛ばしている中年男性などがいた。正直、あれでは就職できないよと思ってしまった。自分で就職しやすくなるような努力を何もしていないのだ。

今回の派遣打ち切りのケースも、経済不況の影響だし、それ自体は企業側に責任がある問題だ。しかし、それでいきなりホームレスになってしまうというのはもうそれは本人の問題なのではないか。私のよく知る人の中にも、借金を抱え、当然貯金も一銭もなく、生活に困窮している人がいる。彼らは自らの不幸を社会のせいにしているが、私の見る限り身から出た錆だった。それなりに収入のある時期もあったのに、貯金をしてこなかった自分が悪いとしか言いようがない状況だった。

マスコミは、そういう労働者側の状況など少しも鑑みることなく、ただ「このままではホームレスになってしまう!」と感情的なニュースを報道する。問題なのは、そのような報道の背後には労働者への共感など毛ほどもなく(それはそうだ。みな平均年収トップクラスのテレビ局社員なのだから。)単にセンセーショナリズムにのみ基づいているという点だ。マスコミは労働者の権利を守るという信念で動いているのではなく、この場合そう報道した方が視聴率が取れるからという理由で動いているだけなのだ。

このようなマスコミの信念なき報道は、労働者の怒りの感情を無暗に刺激し、労働問題を泥沼化させる以外何の効果もありはしない。今回の報道で、私が職安で見たような職に悩みを抱えた人たちは、より企業や社会への憎悪を募らすことだろう。企業側の責任と労働者側の責任、双方を公平に分析した冷静な議論、これこそが今この国の労働問題には求められているのだと思う。


posted by Tommy at 23:22| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月28日

【書評】ウェブサービスから見た日本社会―濱野智史『アーキテクチャの生態系』

アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか
アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか

濱野智史氏の『アーキテクチャの生態系』は、ニコニコ動画やmixiなど、現在ネット上で跋扈している数々のサービスを鋭く分析し、日本社会論にまで発展させるという意欲的な作品である。

版元はNTT出版、真っ白でシンプルな表紙に350ページを超える大部という装丁から、一見かなり難解な専門書のように見受けられるがそんなことはない。スマートな「ですます調」で、これでもかというくらいに懇切丁寧に、数多のウェブサービスの本質を説明してくれる。新しい概念の説明の後には必ず「つまり」と続き、簡明な言葉で要約が付されている。非常に親切で手堅い作りだと思った。

内容に関しては、ひたすら面白いの一言。私はよい論文というものは、読者の脳内に次々と知の発火現象を起こして、興奮を与えるものだと思っているが、本書はまさにそれである。Google、2ちゃんねる、mixi、ニコニコ動画、などこれまで個別バラバラだった知識が次々と頭の中でつなぎ合わさり、視界が開けた気分になった。

一例を挙げるとするならばやはりニコニコ動画の分析であろう。濱野氏はニコニコ動画のコメント機能に注目し、実際は、各ユーザーは別々の時間に視聴しているのにも関わらず、コメントを映像と同時に表示することによって、あたかも同じ時間に視聴しているような感覚を生み出しているという。

「ニコニコ動画は、動画の再生タイムラインという『共通の定規』を用いて、<主観的>な各ユーザーの動画視聴体験をシンクロナイズドさせることで、あたかも同じ『現在』を共有しているかのような錯覚をユーザーに与えることができるわけです。」(P.213)

濱野氏はこの現象を「疑似同期」と名付けている。この他にも本書には、「招待性型アーキテクチャ(mixi)」「操作ログ的リアリズム(恋空)」など、啓発に富む魅力的な概念が多数登場する。

そしてそれら多数の現象が、社会学者の北田暁大氏の言う「繋がりの社会性」という概念を共有していることを濱野氏は指摘する。「繋がりの社会性」とは、コミュニケーションの内容よりも繋がっているという事実事態を重視する日本人に特徴的な行為とされる。ここから、日本のウェブサービスに通底する日本社会の特性が浮かび上がってくるのである。

一点気になったことは、このように各国の文化と結び付き独自の進化を遂げている「アーキテクチャ」の背後に、果たして本当に「政治性」は含まれていないのかということだ。

「アーキテクチャ」とは、受けての行動を物理的に制御する「環境管理型権力」と説明される。例えば2ちゃんねるの場合は、最大投稿数制限などの制約により、ユーザーの行動は物理的に制御される。

濱野氏は、このようなアーキテクチャの「環境管理型権力」という性質を認めながらも、その背後に政治性のある権力は存在しないと言う。

「私たちがいま目の前に見ているウェブの生態系は、どれだけ目的合理的に進歩しているかのように見えたとしても、それはあくまで偶然の積み重ねによって生まれたものであり、しかもその進化の方向性は多様なものでありうるはずです。」(P.72)

濱野氏は最終章で、むしろアーキテクチャの持つ「環境管理型権力」を肯定的に捉え、社会を変えていくという構想を掲げている。それは「道具立て」を通じて社会を変えていくという、まさに「ハッキング」のイメージだと濱野氏は言う。

極めて実践的かつ楽観的で私も基本的には賛同したいのだが、それでもやはり「アーキテクチャ」の背後には楽観できない「権力」が潜んでいるのではないかと勘ぐってしまう。Googleに代表される、個人情報の監視やそれに基づいた広告戦略など、いわゆる「資本の論理」にはもっと注視をしなくてよいのか。このような点に関して、今後の濱野氏の論考に更に期待するのと同時に、私自身も自分なりに考えていきたいと思う。


【関連リンク】

濱野智史の「情報環境研究ノート」 | WIRED VISION
濱野智史の個人ウェブサイト@hatena
posted by Tommy at 13:27| Comment(0) | 本(社会学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月26日

カップルの新しいコミュニケーション方法A―精密コードと限定コード

■精密コードと制限コード

前回の記事の補足。カフェで向かい合わせになって、互いに会話を交わすことなくただひたすらPSPをプレイし続けるカップルは、ゲーム世界で通信プレイをしていた可能性があるので、そこには「内容」のともなったコミュニケーションが存在する。

しかし、街を見渡してみると、それこそ向かい合って互いに一言も口を利かずケータイをプレイしているだけ、マンガを読んでいるだけというカップルも結構見かける。

このようなカップルはお互い話すことがないから黙っているのだろうか。それとも、「一緒にいてラク」な恋人は、単に孤独感を紛らわすためのツールに過ぎず、前に座らせておいて後は自分の好きなことをやろうというスタンスなのだろうか。

無論、全ての若いカップルがこうかというとそんなことはなく、他愛もない話に花を開かせている者たちも多い。

これはあくまで私の仮説だが、会話するカップルと会話しないカップルは、イギリスの社会学者兼、言語学者バーンステインの言う「限定コードと精密コード」に関係しているのではないか。

★限定コードと精密コード(Wikipedia)

「簡単に言えば、精密コードは、物事を客観的、抽象的、人格的に述べるコードであり、限定コードは、物事を主観的、地位的に述べるコードである。」

更に社会学小辞典(有斐閣)によると、限定コードとは、「相対的に単純な語彙や統語構造の発話」を規制するコードとも記述されている。

この議論は単純に「労働者階級の子供は言語能力が優れていない」という身も蓋もない意見になってしまうので、安易に持ちだすのは良くないのかもしれない。

しかし、この概念をあえてカップルに当てはめてみると、精密コードのカップルは活発に会話を交わし、限定コードのカップルは特に会話もなく黙々と「主観的な」メディア世界に没頭することができると考えられるのではないか。

限定コードのカップルが、やがて結婚し子供ができても親がこの調子だと子供も限定コードに育つ可能性が高い。かくして、文化格差は再生産されていくのだ…。




posted by Tommy at 23:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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